絵を飾りたいと言う発心から、どうもあれこれ思いあぐねているんだけど
自分に「しっくりくる感」をもっと知りたくて入門書を手にとってみた。
ところで入門書ってなんか、恥ずかしいよね。
本にカバーつけない主義(理由:邪魔だから)なわたしですが
さすがに堂々と「入門書」って書いてあると電車で人目が気になったりしてネ。えへへ。
しかし敢えて恥を晒してみちゃったりしてね、うふふ。
さて、この本、わりに面白かったです。
新書でたまにいいのに巡り合うと、ツイてるなぁ!って思います。
それくらい新書で良書って稀だと思うんですが。
ええっと、話が逸れちゃった。
アートの解説ってどうなの?邪道?
自分の感性で観れば十分じゃないの?
っていうのが基本姿勢な皆さん。とゆーか、わたし。
とにかくまあこの本に書いてあったことは至極簡単でした。
現代アートは意味不明。かつ美しくない。
つまり、美しくないとは、美を求めないことだ。
それこそが、現代アートだ。以上、終わり。
あ、終わっちゃった。
芸術が美を求めないって、意外ではありませぬか?
もちろん、求めても良いわけなんだけど
なんとゆーか、単純で素朴な「美」は失われてしまった。
神や仏、それに付随する人や行為の美しさ、崇高さを賛嘆するような絵画は失われ
心の内面や現代の諸問題(病理といっていいかな)を表現するほうへと急速に傾くと
それは必ずしも美しい絵とはならなかった。
とゆーか、人によっては絵ですらなくなったりして。
ありとあらゆる表現が、ゲイジュツたり得るようになった。
もう、何でもアリ。言ったもん勝ち。やったもん勝ち。
そんな途方もない世界になっているのが現代アートだというのです。
読んでみれば、ほほー。なーるほろ。そーかそーか。となります。たぶん。
あの有名な絵はこういうことだったのか!的な。
そういう意味で満足度の高い本です。
美しくない絵画、今では当たり前になっていますね。
ピカソとか、ダリとか、ゴッホとか、描かれているものは歪められデフォルメされ、
決して美しいとは言えない。
それはそれで時代、時代に特定の意味性があるのだとは思うのだけれど
さて、読後に思ったのは
それでもやっぱり人間には(ま、とりあえずわたしには)「美しさ」を求める心があると。
現代アートには強烈なインパクトはあっても、人々の求める情緒的な美しさがないように思う。
芸術家は、「美」を捨ててしまったの?
現代アートの旗手達が徹底的に破壊した「美」の手法は、古典的ではあっても、
いまもなお多くの人の心を虜にするでしょう。
美しいものには力があるから。
だからそう、芸術は爆発かもしれないけど、美しさは爆破しないでほしいのです。
2011年3月20日日曜日
2011年3月16日水曜日
「KAGEROU」齋藤智裕
一日一冊。
基本的なコンセプトとして、生きている作家の作品は読まない。
がっかりする&時間の無駄だから。
村上春樹、宮本輝は除外。
春樹は好き。輝はそれほどがっかりしないから。
というわけで、古典や名著ばかりを読み漁る毎日ですが、
最近この方針を自ら破りまして「KAGEROU」を読みました。
酷評ですね、アマゾンのレビュー。
原因として、文章力の拙さが一番ではないでしょうか。
人物描写、背景描写など、あまりに情報が少なく、
これでは小説ではなく漫画か何かを読んでいるようです。
しかし、敢えてわたしは言いますが、この本は良く書けています。
ストーリー、十分に面白いと思います。
素直な人が書いた、素直な小説。
そんな印象でした。
もっと面白く読ませようとするなら、もっと意地悪い設定やダイナミックな展開も必要でしょうが
作者自身がとても素直なせいか、登場人物はやさしい人ばかり、不幸に不幸を重ねるような展開はありません。
この本はそれでいい気がします。
さらりと読んで、ふわっと心温める、そんな感じでしょうか。
ただ、タイトルは変えたほうがいい。
「KAGEROU」?なんのこっちゃ。
基本的なコンセプトとして、生きている作家の作品は読まない。
がっかりする&時間の無駄だから。
村上春樹、宮本輝は除外。
春樹は好き。輝はそれほどがっかりしないから。
というわけで、古典や名著ばかりを読み漁る毎日ですが、
最近この方針を自ら破りまして「KAGEROU」を読みました。
酷評ですね、アマゾンのレビュー。
原因として、文章力の拙さが一番ではないでしょうか。
人物描写、背景描写など、あまりに情報が少なく、
これでは小説ではなく漫画か何かを読んでいるようです。
しかし、敢えてわたしは言いますが、この本は良く書けています。
ストーリー、十分に面白いと思います。
素直な人が書いた、素直な小説。
そんな印象でした。
もっと面白く読ませようとするなら、もっと意地悪い設定やダイナミックな展開も必要でしょうが
作者自身がとても素直なせいか、登場人物はやさしい人ばかり、不幸に不幸を重ねるような展開はありません。
この本はそれでいい気がします。
さらりと読んで、ふわっと心温める、そんな感じでしょうか。
ただ、タイトルは変えたほうがいい。
「KAGEROU」?なんのこっちゃ。
2011年3月3日木曜日
絵の話
突然ですがね、絵を飾りたいんですよ。部屋に。そう、壁に。
殺風景な部屋だなと薄々勘付いてはいたんですが
なにしろ踏ん切りがつかないとゆーか、勇気が足りないとゆーか。
人の家に行くとさ、玄関とかリビングとかにその家の不幸を一心に体現したような訳の分からない絵が、呪いでも掛かってるんじゃないかと思うほど悪趣味なドライフラワーとセットで飾ってあるじゃないですか。
音にすると単純だけど、どよーん、的な。ね、わかるでしょ?
そういうの見ちゃうとね、居たたまれない気持ちになっちゃうわけです。
なんでこの絵なの?
何がいいの?何の目的なの?誰をどうしたいの?心安らぐとでも思ってるの?!
って言いすぎ(笑)
それで自分の部屋に飾る絵って図らずも慎重になっちゃうわけです。
ああはなりたくないと。
だけどそんなに構えていたら来世までこの悩みを持ち越しちゃいそうだし、
絵画を語るなんて本当に恥ずかしくておこがましいけれど
美術鑑賞も何気なくさらりと頻繁に足を運ぶワタシなわけですよ。
東京に住んでいることの楽しさのひとつですからね。
やっぱり三十路になってさあ何をする?って考えたときには
はじめの一歩を踏み出すのは絵じゃないか、と思ったのです。
さてあなたはどんな絵が好きですか?
これはもう完全に趣味の世界ですからね、誰にどうこう言われるものじゃないですよね。
でも自分の好きな絵って本気で考えてみたことありますか?
たった1枚、部屋に飾るのを選ぶとしたら・・・。
とても難しいことですよ。
わたしは小学生のころからピカソが好きでした。
ピカソといえば、彼の書いたどんな絵でも、大いにピカソ的なところが好きなんです。
そこで絵を飾るならピカソか、とも思いましたが(もちろんレプリカですよ)
ちょっとまだ荷が重過ぎる気がして完全に腰が引けてしまいました。
ピカソのこんなヤツ↓↓ならベッドのわきにでもいいと思いますけどね。
かわいいでしょ。
このシリーズは結構好きです。
ま、ピカソは後々にとっておくとして。
ネットで絵探しを始めました。
わたしは昔から抽象画が好きなんです。
性格ですかね、考えも行動も大雑把なのでタッチの細かい絵は好きじゃないわけです。
ちなみに飾るのはここ↓↓
明るい色、ピンクとかイエローとか。
それで、ちょっとパンチの効いたもの。
今の気分でいくつかピックアップしてみました。
ポール・アイズピリ
「オレンジのテーブルの青い水差しの花束」
いい感じなんだけど、横長の絵を探してるんだよね。
ベルナール・カトラン
「ビクトリア調の花瓶とレモンバスケットのある静物」
これもなかなか好き。
ジョルジュ・ブラック
「L'Oiseaux Bleu et Gris」
ま、タイトル読めませんけどね。
これも縦長なんだよねー。
アンリ・マティス
「ナイフを投げる人」
まあどうしてナイフを投げる事態に陥ってしまったのか
その辺が気がかりですけどね。
マーク・ロスコ
「無題」
ロスコに関しては何が描かれてるとか
そういうの考えちゃダメよね。
無題なわけですよ。
ワシリー・カンディンスキー
「連続」
うん、画集持ってるんだ。
こういうのもいいかも。
ジャン・ミシェル・バスキア
「Michel, Molasses, 1983」
これ、かなりイイと思うのです。
第一候補。
ゲルハルト リヒター「Tisch 1982」
ティッシュってティッシュかと思ったら、ドイツ語で机のことだったんだね。
きれいな色なわけですが。
ロバート・マンゴールド
「Curled Yellow Figure」
もういっそのこと黄色ね。潔いよね。
さて、どれが良かったですか。率直に。
絵を選ぶのって難しいですよね。
そんなに深く悩まずにバーローって感じで選んだほうが粋かもしれませんが。
実物見たほうがいいんだろうから、お給料入ったらギャラリーでも散策してみます。
ホントはギャラリーとか入ったら買わなきゃいけなくなりそうで怖いんだけどさっ。
虎穴にいらずんば虎児を得ずってことわざもあるしね。
無事に飾ることができたら写真とともにお知らせします。
服についての考察
考察なんてね、だいそれたもんじゃございませんよ。
タイトルつけたそばから言い訳しちゃったりして。
たださ、最近どんな洋服を着ていいのか分からないんです。
「さっぱり分からなくなっちゃった。」ってほうが言い回し的には合ってるかな。
服なんて、クローゼットにブチこんであるものを適当に選んで
バーローって感じで着ればいいのですけどね。
でも、手持ちのどの服も、好きじゃなくなってしまった。
街に出て、ウィンドウショッピングしても楽しくなくなってしまった。
心躍る体験を洋服から感じなくなってしまった。
面倒くさいとか、興味がないとか、そういうものでもないんです。
ただ、今まで自分はどんな基準で服を選んできたのか、さっぱり思い出せないのです。
これからどんな格好をしたら満足するのか、よく分からなくなってしまった。
好き、なものが見えなくなってしまった。
そんな経験ありますか?
これは個人的にはわりと一大事なんです。
「好き」が見えない世界で生きるのは大変なことだと気づいたのです。
わたしに見えるのは、すべての境界線があいまいで、
のっぺりとしていてモヤがかかったような世界なのです。
この世の終わりの気分。
もちろん、服に関してですが。
これからの人生で、自分が着る服を真剣に考えなければならないと、最近思うのです。
色と素材、スタイル、テイスト。
これらを早急に考えなければならないのです。
そうじゃないと裸で街を歩きかねない。
もうどうでもいいやーって思っちゃう寸前ですもん。
本当に好きな服を着たい。見つけたい。
これが本音。
ファッションが自己表現のひとつの確実な手段だとしたら、
わたしのスイッチは完全に切り替わったのだと思います。
10代の終わりから20代の前半にかけて、ロングスカートばかり履いていたのは
自分を必要以上に強く見せるためだったのだと、ようやく気づきました。
地面すれすれのスカートを揺らして大きな歩幅で歩く。
強さ、エレガンス。
自分にないものをファッションに転化して。
長いスカートの中に、さまざまな思惑を隠して。
足元見られないようにね。
あのとき、確かに自分流のスタイルがあった。
その後は迷走。
流行の安い服を適当に選んで着ていました。
はっきりとしたスタイルもなし。
色もバラバラ。
中途半端な服ばかり。
でも、もうそういう気分じゃない。
もう一度、自分のスタイルみたいなものを探さなければならない。
強く見せる必要もなければ弱さを身にまとうつもりもない。
等身大のファッション。
とうとう、ファッションと向き合うときが来た。
一度こういう状態になると、さんざん格闘しなければならない性分なのです。
服と戦うなんて、ちょっと変だけど。
さて、どうなりますかね。
なにか見つけたら、また書きます。
タイトルつけたそばから言い訳しちゃったりして。
たださ、最近どんな洋服を着ていいのか分からないんです。
「さっぱり分からなくなっちゃった。」ってほうが言い回し的には合ってるかな。
服なんて、クローゼットにブチこんであるものを適当に選んで
バーローって感じで着ればいいのですけどね。
でも、手持ちのどの服も、好きじゃなくなってしまった。
街に出て、ウィンドウショッピングしても楽しくなくなってしまった。
心躍る体験を洋服から感じなくなってしまった。
面倒くさいとか、興味がないとか、そういうものでもないんです。
ただ、今まで自分はどんな基準で服を選んできたのか、さっぱり思い出せないのです。
これからどんな格好をしたら満足するのか、よく分からなくなってしまった。
好き、なものが見えなくなってしまった。
そんな経験ありますか?
これは個人的にはわりと一大事なんです。
「好き」が見えない世界で生きるのは大変なことだと気づいたのです。
わたしに見えるのは、すべての境界線があいまいで、
のっぺりとしていてモヤがかかったような世界なのです。
この世の終わりの気分。
もちろん、服に関してですが。
これからの人生で、自分が着る服を真剣に考えなければならないと、最近思うのです。
色と素材、スタイル、テイスト。
これらを早急に考えなければならないのです。
そうじゃないと裸で街を歩きかねない。
もうどうでもいいやーって思っちゃう寸前ですもん。
本当に好きな服を着たい。見つけたい。
これが本音。
ファッションが自己表現のひとつの確実な手段だとしたら、
わたしのスイッチは完全に切り替わったのだと思います。
10代の終わりから20代の前半にかけて、ロングスカートばかり履いていたのは
自分を必要以上に強く見せるためだったのだと、ようやく気づきました。
地面すれすれのスカートを揺らして大きな歩幅で歩く。
強さ、エレガンス。
自分にないものをファッションに転化して。
長いスカートの中に、さまざまな思惑を隠して。
足元見られないようにね。
あのとき、確かに自分流のスタイルがあった。
その後は迷走。
流行の安い服を適当に選んで着ていました。
はっきりとしたスタイルもなし。
色もバラバラ。
中途半端な服ばかり。
でも、もうそういう気分じゃない。
もう一度、自分のスタイルみたいなものを探さなければならない。
強く見せる必要もなければ弱さを身にまとうつもりもない。
等身大のファッション。
とうとう、ファッションと向き合うときが来た。
一度こういう状態になると、さんざん格闘しなければならない性分なのです。
服と戦うなんて、ちょっと変だけど。
さて、どうなりますかね。
なにか見つけたら、また書きます。
心に太陽を持て―山本有三
― 心に太陽を持て ―
心に太陽を持て。
あらしが ふこうと、
ふぶきが こようと、
天には黒くも、
地には争いが絶えなかろうと、
いつも、心に太陽を持て。
くちびるに歌を持て、
軽く、ほがらかに。
自分のつとめ、
自分のくらしに、
よしや苦労が絶えなかろうと、
いつも、くちびるに歌を持て。
苦しんでいる人、
なやんでいる人には、
こう、はげましてやろう。
「勇気を失うな。
くちびるに歌を持て。
心に太陽を持て。」
さて、どのようにして心に太陽を持ち、ほがらかに歌うように日々生活できるのか。
この本は、その答えが書かれた希望の一書。
心に太陽を持て。
あらしが ふこうと、
ふぶきが こようと、
天には黒くも、
地には争いが絶えなかろうと、
いつも、心に太陽を持て。
くちびるに歌を持て、
軽く、ほがらかに。
自分のつとめ、
自分のくらしに、
よしや苦労が絶えなかろうと、
いつも、くちびるに歌を持て。
苦しんでいる人、
なやんでいる人には、
こう、はげましてやろう。
「勇気を失うな。
くちびるに歌を持て。
心に太陽を持て。」
さて、どのようにして心に太陽を持ち、ほがらかに歌うように日々生活できるのか。
この本は、その答えが書かれた希望の一書。
2011年1月23日日曜日
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」サリンジャー by村上春樹訳
良い本というのはね、
読み終わったときにそれを書いた作家にちょっと電話をかけてしまいたくなるような本のことだよ。
というようなくだりがありますが、
わたしは間違いなく、J.D.サリンジャーに電話かけちゃいたいね。
良い本だ。
2011年1月16日日曜日
あけましておめでとう
最近、自分のことが好きだと感じる。
何か特別なこともしてないし、できない。
過度な自分への期待もない。
いつもダメな自分と、自分ならもっとできるはずだと思い込んでいた自分の
その狭間にいて、もがいていたような気がする。
肩の力が抜けた、開き直った、いろいろ知りすぎた?
でも、特別なことが起こらない毎日で、
これはこれでいいと思える。悪くないじゃん、と気に入っている。
若くなくなったのかも。
それもそれでいい。
つい1ヶ月ほど前に31歳になりました。
若くないから、ちょうどいい。
自分も他人も真っ黒にしちゃうほどの燃え上がるような情熱はないけれど、
あったかいと感じる温度でいるような気がする。
この一年、わたしは何を書くかな。
何か特別なこともしてないし、できない。
過度な自分への期待もない。
いつもダメな自分と、自分ならもっとできるはずだと思い込んでいた自分の
その狭間にいて、もがいていたような気がする。
肩の力が抜けた、開き直った、いろいろ知りすぎた?
でも、特別なことが起こらない毎日で、
これはこれでいいと思える。悪くないじゃん、と気に入っている。
若くなくなったのかも。
それもそれでいい。
つい1ヶ月ほど前に31歳になりました。
若くないから、ちょうどいい。
自分も他人も真っ黒にしちゃうほどの燃え上がるような情熱はないけれど、
あったかいと感じる温度でいるような気がする。
この一年、わたしは何を書くかな。
2010年10月31日日曜日
「十二夜」シェイクスピア
喜劇です。
海で船が難破して双子の兄妹がそれぞれ離れ離れに。
別々の人に助けられにお互いに死んだと思い込んでいる。
妹は男装してセザーリオと名乗り、恋焦がれていたオーシーノ伯爵に仕える。
オーシーノ伯爵は、ある美しい女性オリヴィアに恋していて、
恋心を伝えるためにセザーリオを使いに出す。
セザーリオを見たオリヴィアは本当は女性であるセザーリオに恋をしてしまう。
これで三角関係が成立。
しかし顔がそっくりの双子の兄が登場して話はもっと複雑に・・・!!
文句なく面白いです。
ハッピーエンドですが、ひと味辛味を効かせているあたり、シェイクスピアらしい。
笑えるのが、ちょっと頭の悪いお坊ちゃんのアンドルー(オリヴィアに求婚中)が、
悪い仲間にせかされてセザーリオに決闘を申し込む果たし状を書いてくるシーンがあります。
アンドルー:ホレ、果し状だ。読んでくれ。思いっ切り、辛味とスゴ味、きかしといたからな。
トービー :よし、よこせ。(読む)「バカヤロー。テメェが何者だろうと、テメェはコノヤローだ」
フェビアン:いいねえ、勇ましいねえ。
トービー :「驚くなかれ、呆れるなかれ、ボクがなぜお前をそう呼ぶか、その理由を、ボクは断じて白状するつもりはないゾ」
フェビアン:いい調子だ。白状しなきゃ、法律に触れる心配ないもんねえ。
トービー :「お前はオリヴィア姫のところへ来て、ボクが見てる目と鼻の前で、彼女はお前を親切にする。しかしお前は大嘘つきだ。それこそは、ボクがお前に決闘を申し込む理由ではないなり」
フェビアン:いやあ、まさしく、簡にして要を得て―ない。
トービー :「ボクはお前がおうちに帰るところを待ち伏せするぞ。もしお前が幸いにしてボクを殺せば―」
フェビアン:ホウ、ホウ。
トービー :「お前はゴロツキとして、かつ悪者としてボクを殺すぞ」
フェビアン:相変わらず法律の網には引っ掛からない。おみごとですな。
トービー :「では、御機嫌よう。神様が、ボクら二人のどっちかの魂の上にお恵みをください。ひょっとかすると神様は、ボクの魂の上にお恵みをくださるかもしれんが、ボクは天国に行くつもりなんかサラサラないぞ。だから、よくよく気をつけるんだぞ、クソクラエー。お前の出方しだいで、お前の友だち、でなかったら、お前の目の敵になってやるからな。アンドルー・エイギュチークより」
このやりとりはなかなか笑える。
最後の「お前の出方しだいで、お前の友だち、でなかったら、お前の目の敵になってやるからな」が
かわいい。わたし的に萌えた。
そしてこのセリフ。
シェイクスピアは忘恩こそ人間のもっとも恥ずべき行為として考えていたのですね。
私、なんにも、知りません。そんなこと。
あなたの声も知らなければ、顔にもなんの見覚えもない。
受けた恩を忘れるほど、私の忌み嫌うものはほかにない。
嘘をつく、ホラを吹く、酔ってクダを巻く ― そのほか何であろうと、
人間の弱い血にまとわりつくいかな悪徳、いかに強力な罪であろうと、
恩を忘れるほどおぞましいものはどこにもない。
私は、そう考えております。
海で船が難破して双子の兄妹がそれぞれ離れ離れに。
別々の人に助けられにお互いに死んだと思い込んでいる。
妹は男装してセザーリオと名乗り、恋焦がれていたオーシーノ伯爵に仕える。
オーシーノ伯爵は、ある美しい女性オリヴィアに恋していて、
恋心を伝えるためにセザーリオを使いに出す。
セザーリオを見たオリヴィアは本当は女性であるセザーリオに恋をしてしまう。
これで三角関係が成立。
しかし顔がそっくりの双子の兄が登場して話はもっと複雑に・・・!!
文句なく面白いです。
ハッピーエンドですが、ひと味辛味を効かせているあたり、シェイクスピアらしい。
笑えるのが、ちょっと頭の悪いお坊ちゃんのアンドルー(オリヴィアに求婚中)が、
悪い仲間にせかされてセザーリオに決闘を申し込む果たし状を書いてくるシーンがあります。
アンドルー:ホレ、果し状だ。読んでくれ。思いっ切り、辛味とスゴ味、きかしといたからな。
トービー :よし、よこせ。(読む)「バカヤロー。テメェが何者だろうと、テメェはコノヤローだ」
フェビアン:いいねえ、勇ましいねえ。
トービー :「驚くなかれ、呆れるなかれ、ボクがなぜお前をそう呼ぶか、その理由を、ボクは断じて白状するつもりはないゾ」
フェビアン:いい調子だ。白状しなきゃ、法律に触れる心配ないもんねえ。
トービー :「お前はオリヴィア姫のところへ来て、ボクが見てる目と鼻の前で、彼女はお前を親切にする。しかしお前は大嘘つきだ。それこそは、ボクがお前に決闘を申し込む理由ではないなり」
フェビアン:いやあ、まさしく、簡にして要を得て―ない。
トービー :「ボクはお前がおうちに帰るところを待ち伏せするぞ。もしお前が幸いにしてボクを殺せば―」
フェビアン:ホウ、ホウ。
トービー :「お前はゴロツキとして、かつ悪者としてボクを殺すぞ」
フェビアン:相変わらず法律の網には引っ掛からない。おみごとですな。
トービー :「では、御機嫌よう。神様が、ボクら二人のどっちかの魂の上にお恵みをください。ひょっとかすると神様は、ボクの魂の上にお恵みをくださるかもしれんが、ボクは天国に行くつもりなんかサラサラないぞ。だから、よくよく気をつけるんだぞ、クソクラエー。お前の出方しだいで、お前の友だち、でなかったら、お前の目の敵になってやるからな。アンドルー・エイギュチークより」
このやりとりはなかなか笑える。
最後の「お前の出方しだいで、お前の友だち、でなかったら、お前の目の敵になってやるからな」が
かわいい。わたし的に萌えた。
そしてこのセリフ。
シェイクスピアは忘恩こそ人間のもっとも恥ずべき行為として考えていたのですね。
私、なんにも、知りません。そんなこと。
あなたの声も知らなければ、顔にもなんの見覚えもない。
受けた恩を忘れるほど、私の忌み嫌うものはほかにない。
嘘をつく、ホラを吹く、酔ってクダを巻く ― そのほか何であろうと、
人間の弱い血にまとわりつくいかな悪徳、いかに強力な罪であろうと、
恩を忘れるほどおぞましいものはどこにもない。
私は、そう考えております。
2010年10月30日土曜日
「馬」小島信夫
ある日、自分の家の庭に勝手にもう一つ家が建ち始める。
主人公の「僕」が驚いて妻に問い詰めると「あなたが住む、あなたの家を建ててるのよ」と。
自分の家のことなのに何も知らない上、詳しい説明もない。
さらにその新しい家にはなぜか馬が住むことになる。
「僕」は、わけがわからないままカッとなって大工の棟梁に殴りかかるも失敗して梯子から落ち、
そのはずみで感電して精神病院に入院させられる。
病棟から建築中の家を眺めていたら、暗がりの家の中に妻と、男の影が見える。
よく見えないが大工の棟梁らしい。
そのことを翌朝妻に詰問すると「何言ってるの、あなたが来たんじゃない」と。
自分の見た男の影が自分?
もうわけがわからない。
退院して家に帰ってみると、すでに新築の二階建てのわが家の一番豪華な部屋に馬が暮らしている。
馬は競走馬で、気品があり男らしく野性的で、人間の「僕」よりも妻に大事にされている。
さらに真夜中に馬が「奥さん、奥さん、開けて下さい」としゃべっているのを聞いてしまう。
やがて妻は馬と起居しだし、馬のために大きなセーターまで編みだす始末。
さすがの僕もこのままではヤバイと思って
馬にまたがって「お前の主人は僕だぞ!」と鞭をくれてやるが馬はまったく言うことを聞かない。
そのうち、馬に振り落とされ、クタクタになりながら家に戻ってくると
家から大工の棟梁が出てくる。
でも「僕」は疲れ果てていてもう怒る気になれない。
すると「この野郎!」と叫んで馬が大工の棟梁のあとを追っていく。
ああもうこれ以上は無理だ、自分の頭がおかしいのか?
もう一度心安らぐ場所へ戻ろうと、「僕」が精神病院へトボトボ歩いていると
妻があとを追いかけてきて
「待って。わたしはあなたのことを本当に愛しているのよ」と告白される。
以上があらすじです(笑)
意味不明かつ理不尽。
主人公の僕は小心者なのでいつも妻に言いくるめられ、状況にガンガン流されていきます。
この手の不条理小説は、昔好きだった安部公房に似ていますが
小島氏の場合は、主人公がなかなかあり得ない「弱さ」を発揮します。
とにかくあらゆることに弱い主人公。たぐい稀な「弱さ」が読んでて可笑しいのです。
そもそも最初に、勝手に「わが家」が建ち始めた時点で怒ってもいいのですが
怒らない。うまく怒れない。
妻の理屈に丸め込まれて、仕方がない、とすぐに諦めます。
我が家に、馬が住むことになるのも、仕方がない。
こういう奇妙な弱さ、なかなか書けるものじゃない。
話の一貫性がないのに小説として成立していることがすごい。
「僕は」「僕は」を繰り返す小学生のような独特の文体もまた主人公の「弱さ」を倍増させていて面白い。
ヘンテコな小説が読みたい時はこちらです。
ちなみに、小説「馬」は以下の短編集に収録されています。
主人公の「僕」が驚いて妻に問い詰めると「あなたが住む、あなたの家を建ててるのよ」と。
自分の家のことなのに何も知らない上、詳しい説明もない。
さらにその新しい家にはなぜか馬が住むことになる。
「僕」は、わけがわからないままカッとなって大工の棟梁に殴りかかるも失敗して梯子から落ち、
そのはずみで感電して精神病院に入院させられる。
病棟から建築中の家を眺めていたら、暗がりの家の中に妻と、男の影が見える。
よく見えないが大工の棟梁らしい。
そのことを翌朝妻に詰問すると「何言ってるの、あなたが来たんじゃない」と。
自分の見た男の影が自分?
もうわけがわからない。
退院して家に帰ってみると、すでに新築の二階建てのわが家の一番豪華な部屋に馬が暮らしている。
馬は競走馬で、気品があり男らしく野性的で、人間の「僕」よりも妻に大事にされている。
さらに真夜中に馬が「奥さん、奥さん、開けて下さい」としゃべっているのを聞いてしまう。
やがて妻は馬と起居しだし、馬のために大きなセーターまで編みだす始末。
さすがの僕もこのままではヤバイと思って
馬にまたがって「お前の主人は僕だぞ!」と鞭をくれてやるが馬はまったく言うことを聞かない。
そのうち、馬に振り落とされ、クタクタになりながら家に戻ってくると
家から大工の棟梁が出てくる。
でも「僕」は疲れ果てていてもう怒る気になれない。
すると「この野郎!」と叫んで馬が大工の棟梁のあとを追っていく。
ああもうこれ以上は無理だ、自分の頭がおかしいのか?
もう一度心安らぐ場所へ戻ろうと、「僕」が精神病院へトボトボ歩いていると
妻があとを追いかけてきて
「待って。わたしはあなたのことを本当に愛しているのよ」と告白される。
以上があらすじです(笑)
意味不明かつ理不尽。
主人公の僕は小心者なのでいつも妻に言いくるめられ、状況にガンガン流されていきます。
この手の不条理小説は、昔好きだった安部公房に似ていますが
小島氏の場合は、主人公がなかなかあり得ない「弱さ」を発揮します。
とにかくあらゆることに弱い主人公。たぐい稀な「弱さ」が読んでて可笑しいのです。
そもそも最初に、勝手に「わが家」が建ち始めた時点で怒ってもいいのですが
怒らない。うまく怒れない。
妻の理屈に丸め込まれて、仕方がない、とすぐに諦めます。
我が家に、馬が住むことになるのも、仕方がない。
こういう奇妙な弱さ、なかなか書けるものじゃない。
話の一貫性がないのに小説として成立していることがすごい。
「僕は」「僕は」を繰り返す小学生のような独特の文体もまた主人公の「弱さ」を倍増させていて面白い。
ヘンテコな小説が読みたい時はこちらです。
ちなみに、小説「馬」は以下の短編集に収録されています。
2010年10月26日火曜日
昔話改め、いまのお話。
むかしむかし あるところに
お爺さんと お婆さんと 桃太郎と サルと キジと イヌと 鬼が いました。
(行間に筆舌に尽くしがたい苦闘はあるものの)
みんなで仲良く暮らそうと思いました。
おしまい♪
お爺さんと お婆さんと 桃太郎と サルと キジと イヌと 鬼が いました。
(行間に筆舌に尽くしがたい苦闘はあるものの)
みんなで仲良く暮らそうと思いました。
おしまい♪
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