2011年4月23日土曜日

ホテルカリフォルニア

女性ヴォーカルの「ホテルカリフォルニア」が聞きたくて探していたんだけど
なかなか見つからない。
やっと見つけてもすごく残念な感じ。。なんつーか、下手っつーか、棒読みならぬ棒唄い。

・・・と、思っていたらなんと見つけたよ!



これはうまい。レベル高い。渋い。しびれた。
彼女の他のカバーも聞いてみたがどれもすげーうまい。
趣味がいい。

そしてこの動画についているコメントに笑えた。
ほとんどの人が高評価をつけている一方で、
極少数の人が低評価をつけていることに対するコメントなのだと思うが↓

49 people had bad experiences at hotels.
(低評価をつけた)49人の人たちは過去にホテルで嫌な経験でもしたんだろ。


くすっ。

2011年4月12日火曜日

出る杭と河童

世の人の言うところに「出る杭は打たれる」とありますが、
出すぎた杭は打てないのです。
誰の手にも負えないくらい、
あなたは遠慮せずどこまでも前へ出て行けばいい。


ときにあなたの失敗をあざ笑う奴がいるかもしれない。
わたしはそれを「河童の川流れ」といいましょう。
誰よりも泳ぎのうまい河童は、たまには泳がずに川に流されたっていいのです。
決して溺れているわけじゃない。たとえ人の目に「失敗」と映ったとしても。
流れに身を任せて気持ちよく流されてみせればいいのです。
あなたの足を引っ張る人々の目の前で、悠々と流されてみせればいいのです。


そんなことで負けるあなたとわたしじゃない。

2011年4月11日月曜日

大地が揺れるたびにわたしは生き残っていることを知る。
わたしはここにいることに気づかされる。

こんなふうに足元から揺さぶられなければ、
ひょっとしてここにいることに気づかなかったのかもしれない。

死をイメージしなければ生を感じることができないように。

2011年4月10日日曜日

対決と武器

真夏のある日、大学院の研究室を訪ねた。
知り合いのツテで紹介してもらったのは、
細身の色あせたブルージーンズに着古したチェックのシャツを着た院生の男の人だった。
覇気もなく爽やかさもまったくないが、ある程度の清潔感は感じられた。

互いに挨拶をして簡単な自己紹介をした。

「私は法律学部の2年生です。しかし法律のことはほとんど勉強していません。国際政治と紛争解決に興味の中心をおいています。国際政治の授業以外には、経済と心理学と、統計、歴史の授業などをあれこれ取り、だんだん自分でも何の勉強をしているのか分からなくなっています。いま哲学に興味があります。わたしに法律の勉強は不向きです。文学部に転部しようかと先輩に相談したところ、あなたを紹介してもらいました。あなたは哲学を主に研究していると聞きました。それでここに来たのです。」

わたしの質問は要領を得ない。
それでも男性は静かに注意深く聞いていた。

「なるほど。」

短い相槌のあと、彼は思いをめぐらすようにわたしから目をそらした。
その午後はよく晴れていて外では蝉がうるさく鳴き散らかしてた。
空調はほどよく利いていたが外から来たわたしにはまだ暑かった。
ここは別世界のように静かだ。
研究室の本棚に並んだ厚みのある背表紙の本たちは威厳を保つようにじっと動かないでいる。
わたしの目の前に座っている彼もまた動かない。
彼と本たちは暑さを感じないのだろうか?
そらした視線が再びわたしの顔に戻ってきて焦点が合う。
彼はわたしに質問した。

「哲学といってもさまざまな分野があります。あなたは何に興味がありますか?」

わたしは答えを用意していない。
彼はわたしが答えるのを待っている。しばらくの沈黙。
いつまでも待っている姿勢を崩さないようだ。
諦めてわたしは答える。

「わたしには哲学がよくわかりません。科目では歴史が特に好きなのです。E.H.カーの『歴史とは何か』を読みました。するとそこに『歴史とは過去と現在との対話である』と書いてありました。これは哲学だと思ったのです。直感です。」

彼はそのまま黙っている気配を示していた。
わたしは次にしゃべる言葉が見つからない。
無理やり言葉を続ける。

「先日、大学に『紛争解決学』という新しい科目ができました。その授業を聞いていると、わたしの知りたいことは、人はなぜ争うのか、ということだと気づいたのです。具体的な解決の方策ではありません。もっと根本的な問題です。わたしが考えたのは『価値』や『基準』です。そのことのほうが知りたくなったのです。それで哲学は実際にその問題をどう捉えているのか、それを確かめたいのです」

わたしは迷いながらも一気にしゃべった。
舌がもつれ、自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。
分からないことを口にするのは少し恥ずかしかった。


「わたしの研究しているのは『存在』についてです。だからあなたの疑問に答えるのは難しいかもしれない。」

「存在とはなんですか?」

「では少しだけあなたに秘密の問いを教えます。哲学が何を語っているのか、です。」

平坦な声でゆっくりと話す。
わたしは息を整えて待つ。


「痛みとは何か知っていますか。あなたがたとえば怪我をする。血が出る。痛みを感じる。痛みを科学的に説明すると脳内に『ある物質』が分泌されていることが分かる。その分泌された物質はあなたに『痛み』を与える。しかし『痛い』というものは現実的にどこにも存在しないのです。痛みの原因物質は特定できても、あなたが感じる『痛み』を科学的に見つけることができません。いま僕が『お腹が痛い』と言う。あなたは僕の痛みを見ることは絶対にできません。お腹のどこがどのように痛いかを詳しく説明すれば、その痛みをある程度想像できるかもしれない。自分の経験したお腹の痛みを思い出すこともできる。医者に行けば、痛みの原因は食あたりだ、と説明するかもしれない。しかし僕の痛みは僕にしか体験できない。あなたにも、医者にも、他の誰にも、僕の痛みを体験することは不可能です。他者の存在はここでは完全に切り離されています。痛みはどこまでも孤独なものです。ここまでは分かりますか?」


彼は言葉を区切った。
またわたしの答えを待つ。
しかし今度のは短い沈黙だ。わたしはすぐに答えた。

「分かります」

「この大学では・・・僕がこういうことを言っていいのかわかりませんが、そういうことに鈍感です。なぜなら他者の痛みを自分の痛みとして『同苦』することを推奨している教えがあるからです。しかしやはり他人の痛みを自分のものにすることはできない。『同苦』することが不可能だと言っているんじゃありませんよ。ただ、それは『完璧に別のもの』なのだと言いたいのです」


わたしは「なんとなく分かる」という言葉の代わりに
小さくうなずいた。


「同じように、『愛』もこの世のものではありません。誰も『愛』を見ることはできない。表現することはできます。しかし現実に『愛』そのものは存在しません。それはどこからくるのか?」


ここで再び一呼吸する。
彼は空間に発せられた言葉がわたしに染み込むのを待っている。
言葉は静かだけれども炭火のような熱を帯びている。
少し考えたあと、結局空白の頭のままでわたしはまたうなずく。
すると次の言葉が始まる。


「心はどこですか?心臓や脳をいくら医学的に切り刻んでも『心』は出てこない。なのに、なぜわたしたちは心を持っていると言えるのでしょう?現実的な存在は無いのに、あると感じるのはなぜでしょう?痛みや愛、心はこの世のものではないのです。しかしどこかにあります。いやあると言えるかどうかは分かりません。しかし人間はそれを『ある』と感じるのです。哲学はそのような問題を取り上げています。」


わたしには何の答えもない。
それは彼のひとり言のように感じた。
押し付けがましさがまったくなかったからだ。

彼の言葉はふっと問題を作り出し、それを空間にそのまま残しただけで
わたしにどうしろと要求しているのではなかった。
物事を他人と共有しない彼のその態度は、冷たいようにも見えて、
わたしが感じる哲学という得体の知れないものの不思議さに似ている。

もう帰りたくなった。
一刻も早く彼の前からいなくなりたい。
衝動的な現実逃避がわたしを襲った。

「もう少し考えてみます」

適当なお礼を述べて部屋を出た。
外気の陰湿な暑さがわたしを現実生活に引きずり戻した。
さっきまで居た場所が異次元世界に感じられた。


そして結局わたしは転部しなかった。
難解な哲学書も数冊ななめ読みして最後は投げてしまった。

しかしこの時は気づかなかった。
すでにわたしはある冒険に出されてしまったようだ。
それは最終的に得体の知れないものと対決するしかないという厄介な冒険だ。
おそらくまっとうな生活を望む誰もが、忌み嫌って避けるべき道だ。
なぜならそれは芸術家の仕事だからだ。


それをわたしは今日まで知らず知らずに歩んできてしまった。
賢明とも馬鹿ともいえない選択を繰り返した挙句、
どうやらここまで着てしまった。ダンジョンの入り口。
まだまだ先は長そうだ。
わたしは付近をさまよってようやく入り口を発見したにすぎない。
だが、それが「どういう種類の入り口」かは分かる。

そして幸か不幸か、得体の知れないものとの対決に際して
わたしは言葉という武器しか持っていない。

孤独な戦闘に向けて
唯一の武器、自分の中の言葉を鍛えるしかない。

2011年4月7日木曜日

思うところ

昔、細木なんとかという図々しそうな態度のオバサンがTVに出てきて
悩んでいる人に向かって「あなたは大殺界よ」と言った。

わたしはこの言葉が本当に嫌いだった。

大殺界。

病気になったり、交通事故にあったり、離婚したりするから
この時期は外出を控えたほうがよいです。

そんなふうに解説しているのを見て非常に腹が立った。

たった言葉ひとつで、人を疑心暗鬼にさせ、自然な活力を奪う。
運命に翻弄されるしかない人生。自力で突破することを許さないルール。
こんなひどい粗末な教えが世に広まって、人は本当に幸せになれるだろうか?
信じる人は哀れなり。

・・・

石原というどこかの都知事は、先の大震災について「天罰だ」と言った。
この人は一体どんな邪悪な政治的魔物に憑りつかれたのだろう。
人間性を失っている。またも哀れである。

・・・

震災直後、悲惨な被災地の様子を知って
「わたしに何かできることはないだろうか?」と自問した人が多くいた。
実に多くの人が、世界中で、ほとんど同時に他者への慈悲の心を持った。

衝撃的に時代は変わった。
敵は他者ではなく、放射能というシステムの脅威として厳然と現れた。

わたしたちはこの試練に創造的な力で挑む。

2011年4月5日火曜日

激励

人間には経験を積まなければ分からないこともある。

まわれ右1回と、まわれ右5回は同じ結果のようでも、
まわった回数分だけ見てきた景色が違う。

悩みながら、あちこちぶつかり反発しながら、心が傷だらけになりながら
まわれ右を5回してやっとたどり着いた場所で、
ある人がわたしをとても励ましてくれたことがある。
遠回りをしたね、とは言われなかった。

まっすぐな目で「あなたの歩いた道のりは正しかった」と言った。

あなたの選択は正しかった。
あなたはたった一人でよくぞここまで歩いてきた。
僕はあなたを誇りに思う。

わたしはその言葉に大粒の涙をこぼした。

分かってくれる人がいた。分かってくれる人が。
間違ってなかった。間違ってなかったんだ!

自分を卑下する境涯から一気に解き放たれ、
自己の大肯定という、人生の確かな大地へ引っ張りあげてくれた。

あのときのわたしは、精神も肉体も歓喜そのものと化していた。

「嬉しくて・・・嬉しいんです・・・。」

感謝の言葉は、経験したことのないほどの歓喜に押し流されて
なかなか声にならなかった。


きれぎれのわたしの言葉を聞いておだやかに頷いたあと、
その人はこれまで以上に力強い言葉でゆっくりとわたしに教えてくれた。


あなたは今日のことをずっと忘れないようにしてください。
とても貴重なことを学んだのです。
『人を励ます』とはこういうことです。
最初にその人の全てを受け止めるのです。
そのあとで具体的にひとつ、ひとつ激励するのです。
いいですか。この順番が大事です。

次はあなたが誰かに同じことをしてあげる番です。

2011年4月3日日曜日

「夫婦茶碗」町田康

以前Barで会話した小説家志望という方にどの作家が好きか、と聞いたら町田康と答えた。
町田康?誰だろう。
読書時間を無駄にしないため生存中の作家は基本的に読まないことにしている。

しかし町田康作品のアマゾンレビューは高評価ばかり。
なにがこれほど人を惹きつけるのか。
気になって読んでみた。

ああ、なるほど。
久しぶりにレベルの高い、くだらない小説を読んだ。

ひとことで言えば、頽廃の美学。
わたしが要約すると陳腐としか言いようがないので
ちょっとアマゾンから紹介文を引っ張ってきましょうか。

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金がない、仕事もない、うるおいすらない無為の日々を一発逆転する最後の秘策。
それはメルヘン執筆。
こんなわたしに人生の茶柱は立つのか?!
あまりにも過激な堕落の美学に大反響を呼んだ「夫婦茶碗」。
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頽廃の美学の究極は、それでもなお「生きている」ということではないだろうか。
ここに人を惹きつける鍵がある。
胡散臭いダメ人間がこの世のどこか底辺で生き続けている。
八方塞りでまったく希望がないように見える。
なのに生きているというたくましさ。浅ましさ。
時には何か学ぶものがあるように思います。

堕落するのは悪いことだとは言わない。
一度堕ちるところまで堕ちてみなければ分からないものがある。
さて、問題はどこまで堕ちれるか。
そしてどん底から、なにを拾ってこれるか。

ともあれ町田康。
気取った生き方に辟易した人には良い薬となり、
怠惰な生き方に慣れた人には慰めとも、はたまた警句ともなりましょうか。

「夫婦茶碗」のほかに「きれぎれ」「くっすん大黒」「屈辱ポンチ」も併せて購入しました。
これらはまだ読んでいませんが、
どれを読んでもおそらく同じものしか見つからないような嫌な予感がする。

頽廃の美学は立て続けに読むと体に毒です。


2011年4月2日土曜日

「大地」 パール・バック

最近、あまりにも大地が揺れるので、不安に苛まれている。
だからこの本を再読した。

「大地」パール・バック。
紛れもなく、名著だ。
中国の清朝時代から革命が起こるまでの一家三代の壮大なスケールの物語。

主人公は三人。
最初の時代の王龍(ワンルン)。
彼は貧しい農民から、一代で大金持ちの地主になる。
死ぬまで土を愛した。

その息子の王虎(ワンフー)。
大地を離れ、やがて軍閥の巨頭に。
武力によって世の中が変わると信じ、人民を愛した。

そして王虎の息子の王元(ワンユアン)。
貧しさと豊かさの矛盾に苦しみ、革命に身を投じることもできず
ただ一人の女性を愛した。


人が生きていくのに必要なものは何か?
それは、大地である。

大地とは何か。

わたしたちを支えるもの。
生命の宿る場所。
死してやがて還る土。

雨が降り続いても、日照りが続いても
大地はただそこにある。
ただそこにある、それだけで、完全なる希望である。

希望。

あなたが落ち込んで下を向くとき、そこには大地がある。
そこには不滅の希望がある。


今こそ、この本を読むときではないだろうか。
なぜなら「大地」は、再生と希望の物語だからだ。