2010年9月23日木曜日

本物の馬鹿

「獄中記」(佐藤優著)を読んでいて、馬鹿の由来についての発見。

中国の始皇帝が死んだあと、秦の第二代皇帝・胡亥(こがい)は日ごろから側近政治に頼っていた。
その側近として実力者であった趙高(ちょうこう)は権力の簒奪を考えて
自分の力がどれくらいあるかを知るために、ある実験をした。

趙高はある日、鹿に鞍をつけて、皇帝にこう言う。
「皇帝、この『馬』にお乗りになってください」と。
皇帝はこれを見て「何を言う、これは馬ではない。鹿だ」と答えた。
そこで趙高は
「では皇帝、宮中の大臣たちを呼んで、これが鹿であるか馬であるかを尋ねてみてください」と言う。
言われたとおりに皇帝は大臣や貴族を呼んでこの質問をしたところ、
なんと全員が「これは馬です」と答えた。
その答えを聞いて、皇帝は鹿と馬の区別について真剣に悩むようになった。
これを見ていた趙高は「俺に逆らう者はいない」と確信したという。

全員が「これは馬ではない、鹿だ」と分かっているにもかかわらず
皇帝に向かって「これは馬です」と嘘をついた。
それは実力者(影の権力者)である趙高を恐れたからであった。

ここで面白いのは、
馬か鹿か区別がつけられない(=知性が低い)のが「馬鹿」という言葉の意味ではなく、
鹿を見て「馬です」と答える(=不誠実、保身)者について本来「馬鹿」というのだそうだ。
知性や能力の問題をいうのではなく、誠意や良心の問題であるということだ。

つまり権力におもねる不誠実な人間こそが本物の馬鹿者だと呼べるのだ。
そう考えると、わたしの周りには馬鹿者が少ないと思う。
誠実な、良心的な人に囲まれて暮らしている。
または自分が馬鹿な人間にならないように。

※語源はいくつかあるようです。

2010年9月22日水曜日

「獄中記」佐藤優

「獄中記」は、対露政策を担ってきた凄腕の外交官であった佐藤優氏が
鈴木宗男議員との絡みで2002年5月14日に逮捕された日付から始まる、
勾留512日に及ぶ膨大かつ詳細な個人的記録だ。

恥ずかしながらTVを見ないわたしはこのあたりの事情と推移をよく知らないのだが
小泉政権が誕生して日本の外交政策は一気に(悪しき政策へと)方向転換したらしい。
佐藤氏が国益のために行ってきたそれまでの外交官としての任務が、
ある日を境に「犯罪」として仕立て上げられたようだ。

鈴木宗男と絡んでいたなら悪人だろう、と思ったら大間違いである。
彼は外交のエキスパートであり、まさしくエリート中のエリートだ。
ここで言うエリートとは、単に恵まれた環境下で高度な教育を受けて
高条件の役職に就く人間をいうのではない。

彼はこう書いている。

「日本ではエリートというと、何か嫌な響きがありますが、
ヨーロッパ、ロシアではごく普通の、価値中立的な言葉です。(中略) 
国家を含むあらゆる共同体はエリートなしには成り立ち得ない」

「現下、日本のエリートは、自らがエリートである、
つまり国家、社会に対して特別の責任を負っているという自覚を欠いて、
その権力を行使しているところに危険があります」


"国家に対して特別の責任を負っている"のがエリートである、と述べている。
この、彼の見方はとても正しいと思う。

大なり小なり組織には、そのすべての責任を担う、強烈な志を持った人間がいなくてはならない。
親であれば子に責任を持つ。
一家の大黒柱たる父親は家族を養うために行動に責任を感じるものだ。
真のエリートはそういった小さな個人的責任の範疇を大きく飛び越えて
より多くの人々、国家または世界について特別の責任を担おうとする。
「エリート意識」とは本来、そのような意味、
すなわち国家の大黒柱としての自負と強い責任感において使われる言葉であろう。

ほかにも示唆に富む言葉がいくつかあった。
取調べが進む中で、彼と同じく逮捕されたほかの外交官らについてこう述べている。

「私がどうしても理解できないのは、
なぜ、まともな大人が熟慮した上でとった自己の行為について、
簡単に謝ったり、反省するのかということです。
100年ほど前、夏目漱石が『吾輩は猫である』の中で、
猫に『日本人はなぜすぐ謝るのか。それはほんとうは悪いと思っておらず、
謝れば許してもらえると甘えているからだ』と言わせています。」


難しいのは、彼の犯した犯罪が果たして本当に犯罪なのか、ということです。
「私は、人を殺したのでもなければ、他人の物を盗んだのでもありません。
国益のために仕事をしてきたことが『犯罪』とされているわけです」

政権交代、パラダイムの大転換とともに、何が国益で、何が反国益となるのか。
佐藤氏の場合、対露関係における北方領土政策の大転換があったわけです。
氏はその大転換の狭間で不幸にも「犯罪人」とされたのでしょう。

そしてそれはわたしたちが選び取った政権によって行われた、
という事実を忘れてはならない。
たった一つの選挙によって、これほどたやすく善悪の価値が転換してしまうということに
わたしたち国民はもっと注意しなければならない。

戦時中、思想統制によって思想犯がたくさん生み出された。
思想の自由が保障された現代にあっても、
政策の転換、国益(=価値)の転換によって同じようなことが起こっているのだ。

国民はもっと政治を監視しなければならない、と改めて強く思った一書だった。


2010年9月21日火曜日

攻撃的、圧倒的無個性、理不尽さ、感染病的な恐怖

少し前、友人がブログにベランダのくちなしの鉢植えに
「オオスカシバ」(の幼虫)がいると書いた。

幼虫というからには虫なのだが深く考えもせず
名前からして、綺麗な鳥かしら?と検索してみた。
「オオスカシバ」と入力して画像検索をポチっとクリック。


ギョエー!
なんじゃこの緑の世紀末的怪物はー!
虫嫌いのわたしにはおぞましい画像の数々。
身の毛がよだつ、画像検索。
正直、見たくなかったー!
不注意にも、なぜこんな検索してしまったのか真摯に己に問うべきかもしれない。

虫好きな人には分かるまい。
この戦慄、恐怖。
パソコンの画面が緑の虫に感染してしまったかのようにまったく直視できない。
先日とうとう夢にまで出てきてしまった。

虫を見ると、なにか攻撃的、圧倒的無個性、理不尽さ、感染病的な恐怖を感じる。
なんといっても数が多いというだけでおぞましい。
我々人類は虫に包囲され生きているといっても過言ではない!(たぶん)。
虫好きの人にはまことに申し訳ないが、
現代的潔癖症社会で生きるわたしには虫の存在自体が脅威だ。

ゴキブリもハエも蚊も蛾、「嫌い」というレベルを遥かに凌駕して、もはや「敵」だ。
奴らとは、戦うしかない。

私的、適切な親子関係構築のために

1、スープの冷める距離を保つ。
冷めたスープを黙って飲む。一つの親孝行の形として。

2、過去のことは口にしない。
認識の相違はあらかじめ明らか。燃えカスに燃料を投じてはならない。


3、多くを要求しないが要求には柔軟に応じる姿勢をみせる。
節度ある子としての役割。一つの親孝行の形として。

4、必要最低限の情報として安心材料だけ交換する。
余計な心配はかけず、余計な心配に苛まれない。

5、堂々と我が道を往く。
狭義的には別々の人生。広い意味で同じ人生を生きる。


自分というものを親から防衛しなくてはならない。
そして親を自分の毒牙にかけないように注意しなくてはならない。
ハリネズミが針を出したまま抱き合ったら互いにズタズタになるのだ。


当分このまま現状維持したい。
近寄りもしないし変に近寄らせもしたくない。
それぞれの生活を満足に送れば十分ではないか。
親に対しての感情が非常に冷めてしまったが、
一時の地獄の釜のようにぐらぐら煮え立った状態よりかなり良好だと思っている。
いまは精神的安定を保ちたい。
わたしにもわたしの生活というものがあるんだし。
盆も正月も特別実家に帰らなければならない意義も感じないし
顔を見せないから自分を親不孝だとも思わない。

何をするにせよ、親の幸福を願ってわたしはわたしの人生を送る。

2010年9月20日月曜日

うつ病の人はもっと褒められていい

だって一番大きな敵と戦っているんだ。

すごいことだ。
己の闇という敵を相手にまわしているのだ。

闇のトンネルの中をたった一人で歩き続けなければならない。
誰の声も届かなくなるほどの完全な闇。



それは無気力という名の井戸を掘る人なのだ。
掘れば掘るほど生きる意味を失っていく。
苦しすぎる戦いだ。
その井戸を掘る人がたった一つ信ずるべきことは
「掘り続ければ必ず水が出る」
ということだ。

その水は自分を潤し、やがて多くの人をも潤していく。
井戸を掘る人は偉い人だ。
尊い人だ。
あるとき姿が見えなくなった友人も、いま必死に井戸を掘っている。

「グレート・ギャッツビー」スコット・フィッツジェラルド/村上春樹訳

村上春樹の一番のお気に入りの本。
この小説に出会わなければ、僕は小説家になっていなかった、とまで言わせる
至上最高の作品(もちろん彼にとって)。
それが「グレート・ギャッツビー」なわけだが、わたしには深く感じ入るところは何もなかった。
このところ注意力が散漫なせいか、「非常に美しい」と賞賛されるその風景描写も
わたしの眼前には味気ない灰色の景色としか映らなかった。

所詮、他人の好きな本だ。
わたしはまた別の人間なのだ。

人に薦められた本には得てしてこういうことがよくある。
わたしが大学生の頃、とても感銘を受けた新書の本「歴史とは何か」(E・H・カー著)を
「なにか良い本を紹介してくれ」と尋ねた友人に気前よく貸したところ、結局その本は戻ってこなかった。
数ヶ月経って「あの本はどうしたの?」と聞いたとき
バツの悪そうな表情で「・・・まだ全部読んでないんだ」と答えた友人の声色で
彼にはまったく面白くなかったのだろうということが分かった。
はやく返してね、といった言葉だけがわたしと友人の間に痛々しい焼印のように押されたまま
本そのものは忘却の彼方に飛んでいってしまった。
さようなら、わたしの愛読書。
(その後、あきらめてもう一冊買ったのは言うまでもない)

要するに、自分の好きな本は自力で見つけるのが一番なのだ。
そのために、(少しずつ見当をつけながら)手当たりしだい大量の本を読むのが手っ取り早い。
この「手当たりしだい」というのはわりと重要なことだ。
選り好みは避けられないけれども、ある程度好きな範囲を絞ったあとは
そこに含まれる膨大な数の本の中から、目をつぶって何人かの作家を手づかみで取り出す。
夏目漱石でもシェイクスピアでもホイットマンでもいい。
とにかく有無を言わずに読んでみることだ。
そしてできれば同じ作家の複数の作品を読むほうがいい。
読む順序は問わないが、気になるなら巻末の著者年表を参考にして
作品の書かれた順番くらい頭に入れるといい。
1、2作読めばそれが自分にとって影響力がどれくらいあるか分かる。
気に入らなければ別の作家に手を伸ばしていけばいい。

肝要なことはとにかく読書をやめないことだ。
可能な限り読み続ける。
いつかガツンと後頭部を殴られるほどの衝撃を受ける作品に出会える。

対照的な言葉だが「一書の人をおそれよ」というのがある。
これは一冊だけしか本を読まない人ということではないと思う。
一冊の書物からありとあらゆる示唆を感じ取れる人は人生のすべてにおいて長じている、
という意味だ。
ふだんまったく本読まない人にも一書の人はいる。
手当たりしだい本を読むわたしはまだまだその域に達していないのだ。


間違えられた、わたしの名前

「部長、このメールの私の名前、漢字が違っています」
わたしはできるだけ朗らかに告げた。
一斉に流された署内のあるメールに、チームの全員の名前が署名されていた。
そのわたしの名前の漢字が一字だけ違っていたのだ。

よくあることだ。
わたしの名前の漢字は、あまり名前に使われない、という意味で珍しい。
過去に様々に間違えられてきた。
新聞の集金の受領書なんて10年間ずっと間違ったままだ。
「違います」というのが面倒なだけだ。

だから今回も言うかどうか一瞬迷った。
しかし、この手のメールは毎回同じ署名が使われることになるし
いつか勘の鋭い誰かが気づくかもしれない。
そのときに当の本人が間違いを指摘せず黙っていた、となると余計面倒な気がした。
だから、なるべく何気ない雰囲気を装って、さらりと言ってみるか、と思ったのである。
「部長、名前の一字が違うんですが、まあ、よくあることなんですけどね」と。

しかしこれがとんでもない方向へと向かってしまった。

部長はさっと顔色を変えると、深刻に「ええっ!?なんだって!」と大きな声を出し
わたしのデスクまでつかつかと歩いてきてパソコンの画面を覗き込んだ。
そのリアクションの大きさに驚いて、わたしは慌てて言葉を足した。
「そんなにたいしたことじゃないんですが・・・」
少しおどけて笑顔も作って見せた。

すると部長は怒ったような、真剣な表情で「大事なことだ」と言い、さらに怒気を含んだ声で
「ねえちょっと、○○君!キミが作成した全員の署名、彼女の名前が間違っていたぞ!」
怒鳴られた○○さんがビクビクしながら忍び足でわたしのところまでやってきた。

「この文面は、『彼が』作成したんだよ」と強調してわたしに言い、
「ねえ、キミ!人の名前を間違えるなんてとんでもなく失礼じゃないか!」と怒鳴った。
「す・・・すみません・・・」と恐縮して謝る○○さん。

なんとういうか、大変な事態になってしまった。
わたしの一言で、他人が叱られるとは思いもよらなかった。
そこでこの事態の収拾を図ろうと、いっそう明るい声でわたしも応えた。
「いや、あの、ほんと、ぜーんぜんいいんですよ、よくあることなんで!」
するとすかさず部長が「良くない!」と強い言葉で完全否定した。

それから、どういう漢字を書くのか、真剣に尋ねられ、
これこれこういう字です、よくこういう言葉で使われます、と説明した。
部長は「あー、あの漢字だね、分かった。直しておくから」と言った後、
「申し訳ない!」と直角にお辞儀をした。

これにはびっくりを通り越して唖然としてしまった。
なにか他人の大事なものを壊してしまったときのような、非常事態での究極の謝罪といってもよかった。
名前の漢字を一文字間違えることが、それほどの謝罪に値するとは、
当の本人であるわたしだってそのときまで露とも思わなかった。

そして、そう、人の名前を間違えてしまったときは、これ一大事と大げさになるくらい
まさにこれくらい謝るべきことかもしれない、と思い至って感心してしまった。

人によって名前に対する愛着度は違うだろうが、わたしのようによく間違えられるような名前なら、
その間違えられた漢字ですら、もう自分の名前の一部のような気がしてくる。
要するにもう慣れきってしまっているのだ。
そして間違いを指摘するとき、むしろこちらが悪いことをしてるみたいに
遠慮がちに申し出る癖がついてしまった。
間違えた相手が軽く「ごめんね」と言って済むように、あらかじめこちらが気を遣っている。
そんなわけでふた言めには「たいしたことないですから」と言うのだ。


部長のオーバーリアクションは、後から振り返ってみると
とても誠実なものだったといえる。
わたしの名前はある大事な人から名付けられた、とても大切な名前なのだ。
そんなことは普段とくに説明もしないけれど、この名前に恥じない生きかたをしたいと、
ひっそりと固く誓っているのだ。

部長の90度の謝罪にはこんな言葉が詰まっているように思えた。
あなたの大切な名前を間違えてしまうなんて、これほどの落ち度はありません。
どうかお許しください。

思い返して、じんわりと嬉しくなった。
名前の大事さが分かる人がいるんだな。

2010年9月18日土曜日

生きて、死んで、また生きて。

ある人を忘れられない。
美しい名前を持ち、美しい目と細い身体を持った、ひとつの魂。

わたしたちは互いに戦士だった。
しかもハッピーエンドを信じる戦士であった。

人間は生きたり死んだりする。
わたしは生き、ある日、死ぬだろう。
それは善悪ではない。
ただ、状態を状況に応じて変化させるだけだ。

そして彼女は死んだ。
それはやはり善悪ではない。
ただ、状態を状況に応じて変化させただけだ。

窓を開けるとカーテンが風に揺らめくように、わたしたちは必然的に生きる。
ある日、静かに窓を閉めて風がやむと、カーテンは死ぬ。
戦士は次の戦地へ行くまでの間、風のない丘で深い眠りにつく。
夢を見ているかもしれない。

生きて、死んで、また生きて。

いつかこの戦いには終わりが訪れる。
パーフェクトなハッピーエンドだ。
そのとき、わたしは彼女のたくさんの名前を全部思い出すだろう。
やっと言えるかもしれない。
あの時も、あの時も、あの時も、
ずっとあなただった、ありがとう、と。

2010年9月15日水曜日

生きる。

生きているのが苦しいという場合、それを「生き地獄」という。

地獄ってなんだ?
誰か見たことある?
天国だって、見たことないのにさ。
死んだ後の記憶のある人に聞いてみたい。
どんな世界か話してくれるかしら?
でも、気をつけろ。
嘘をついてるかもしれない。

地獄は概念だ。
実際に地獄という場所も世界もない。太陽系に存在しない。

人間は生きていてとことん絶望する場合がある。
それが地獄だ。
失恋して生きてるのが嫌になったとき。
病気で苦しいとき。
借金に負われて逃げられないとき。
いじめられたとき。
最悪の喧嘩をしたとき。
ひとりぼっちのとき。
大事な人を失ったとき。

苦しくて苦しくてどうしようもない。
そんなとき、生命の状態がまさしく地獄となる。

なぜ、そんな目に遭うのか?

それはわからない。
過去(世)によっぽど酷い行いをしたのかもしれない。
むしろそうとしか考えられない。
因果応報だ。
原因があって結果が生ずる。
悪い結果があるなら、自分が悪い原因を作っていたのだ。

誰かのせいにするところから変な宗教が始まる。
ここは要注意だ。
誰のせいでもない。それは、自分自身の問題だ。
火のないところに煙は立たないのだ。
憶えていなくても、原因は必ず存在している。
今の自分が生まれる前の、前世の話かもしれないだけだ。
前世だろうが来世だろうが、自分は自分だ。別の誰かになるわけじゃない。
良くも悪くも「自分」をずっと生きているのだ。

じゃあ、どうすればいい?

作ってしまった過去は変わらない。もう変えようがない。
何をしたかも憶えていない。
だからといって、先祖を供養するだの、水子の霊がどうしただの、守護霊が弱いだの、
風水的に黄色がいいだの、大殺界だのって
まるで見当はずれだ。
欲の皮の厚い奴らの、金儲け主義に、だまされるな。


答えはひとつ。
弱い自分に負けないことだ。
地獄にいる自分を励ますことだ。
死んだからって、地獄から開放されるわけじゃない。
地獄の生命の状態は、自分がそれを変えない限り、どこまでも続くのだ。

自分の掘った落とし穴に自分ではまったのだ。
自力で這い上がってその穴を自分で埋めるしかない。
間違っても、その穴に誰かを道連れにしようとしたり、他人も落ちろと念じてはいけない。

悪環境に勝つことだ。

決して負けないこと。そして最後に勝つこと。
あなたは勝てる。絶対に勝てる。負けるわけがない。
腹の底から「勝つ」と決めるんだ。
弱気になるな。感傷はいらない。勝った姿を思い描いて。さあ、前を向け。
勇気が出る。
知恵がわく。
道は必ず開ける。
人生は強気で行くんだ。
それが「生きる」ということだ。

これだ。

これが言いたかった。
これを世界中に言わなければならない。

2010年9月14日火曜日

「種の起源」ダーウィン

フルマラソンを走るために身体に必要な筋力がある。
持久力、精神力がいる。

同じように、本は、全身で読むものだ。
持久力と精神力が必要だ。

漢字が読めれば本が読めるってわけじゃない。

理解できないものは、人にとって苦しみなのだ。
続けてページをめくることがすごくむずかしくなる。

絵も音楽も、同じだと思う。
トレーニングをしていないとほとんど鑑賞できない。

何の筋力も使わずに観たり聴いたり読んだりできるものもある。
それは、自力では階段を上れない人用のエレベータのようなもの。
力は使わないけれど、力にもならない。

エレベータ本ばかり読んでいると
いつまでも、ちゃんとした本が読めない。
普段から鍛えてないからだ。

そういう意味で、三島由紀夫やトルストイを読める人は限られている。

小説ばかり読んでいると、論文を読むのがつらい。
逆もまた然り。

わたしにとって、「種の起源」がまさにそれ。
読むのがつらい。途中でやめたくなる。
使ったことのない筋肉で、読み続けなければならない。
これはダーウィンの論文であり、ダーウィンの独り言であり、ダーウィンの魂なのだ。
今日は一日、頑固なダーウィン爺さんと格闘している。
こっちの理解に構わず、勝手にどんどん話を進めていく。
まったく会話が成立しない。
知らない鳥の名前をたくさん出してくる。
ダーウィンは何もわかっちゃいない。
この本は、21世紀に、理科の素養の怪しい30歳の女が読むことを想定して書かれていない。

でも一生懸命書いてある。
どうにか説明しようとしている。

だから喘ぎながらも本は捨てない。
なんとか最後まで、
ダーウィン爺さんが何を言おうとしているのか、聞いてみるつもりだ。

そしてこれが最後まで読めたら、もっと科学の本にも挑戦してみよう。

「借り暮らしのアリエッティ」

日曜日に近所の女の子と映画を観にいった。
スカラ座は、2回目か、それとも3回目かな?
東京に3年も住んでいるのに銀座はほとんど歩いたことがない、
という女の子を連れて行ったのでいちいち感動してくれた。

銀座駅を出て、映画の前にこっちだよ、と地下の階段へ降りていく。
駅前の金券ショップだ。
スカラ座の・・・アリエッティ、あった。前売り券で1290円だ。
窓口で買えば1800円だから、510円得した。
「ね、節約できたでしょ?」
「すごい。知らなかった」
「へへん」

得意げ。

「じゃ、めちゃくちゃうまいアイスティーを飲みに行こう。ちょっと高いけど。」
「高いって・・・いくらくらいですか・・・?」
「うーん、1000円くらいかな。」
「良かった、ケタがひとつ違うのかと思った」
「そんなに高い紅茶なら、むしろ、ぜひどういうものか飲んでみたいよ」

そんな会話をしながら、マリアージュ・フレールに行く。
1000円のケーキも食べたから、合計2000円。
お金遣わせちゃって悪かったな。

「紅茶たくさん飲んだのでトイレに行きたいです」
「映画館と反対方向だけど、三越かどこかのトイレに入る?」
「まだ大丈夫です」
「じゃ、ゴージャスな気分のトイレに行こうぜ」
といって、日比谷まで歩く。そのまま帝国ホテルのトイレへ。

モチロン無料だ。万歳。


そしてスカラ座へ。
日曜日の夕方なのに、映画館はガラガラだった。
アリエッティはあまり人気ないのかしら。もう終わりかけだしね。
残念ながら内容もちょっと物足りなかった。

「なんだか、うーん・・・これで終わりなの?って感じでしたねぇ」
「3部作なんだよ」
「へっ?そうなんですか?」
「そう思えばいいよ、3部作。続きを楽しみに待ってる。これで不満はない」
「ははは。確かにそうかも。」

そのまま私たちはまっすぐおうちへ帰ってきました。
おわり。

2010年9月13日月曜日

「ダンス・ダンス・ダンス」村上春樹

村上春樹は「僕のガールフレンド」と書く。
「僕の彼女」とか「恋人」とかではない。
「ガールフレンド」というのがいかにも彼らしい特別な響きをあらわしていて
好いな、と思う。

彼の表現は本当に多彩で、魅力的だ。
面白い比喩。


音楽が消えるとあたりは眠り込んでしまいそうなくらい静かだった。
ときどき芝刈り機のうううううんんんんという唸りが聞こえた。
誰かが誰かを大声で呼んだ。風鈴がからからと小さな音で鳴った。鳥も啼いた。
でも静けさは圧倒的だった。
何か音がしてもそれはあっという間に痕跡ひとつ残さず静けさの中に吸い込まれてしまった。
家の回りに何千人もの透明な沈黙男がいて、透明な無音掃除機でかたっぱしから
音を吸い取っているような気がした。
ちょっと音がするとみんなでそこに飛んでいって音を消してしまうのだ。






「すごく元気そうに見えるよ。日焼けがたまらなく魅力的だ。
まるでカフェ・オ・レの精みたいに見える。
背中にかっこいい羽をつけて、スプーンを肩に担ぐと似合いそうだよ。
カフェ・オ・レの精。君がカフェ・オ・レの味方になったら、
モカとブラジルとコロンビアとキリマンジャロがたばになってかかってきても絶対にかなわない。
世界中の人間がこぞってカフェ・オ・レを飲む。
世界中がカフェ・オ・レの精に魅了される。君の日焼けはそれくら魅力的だ」






映画は当然過ぎるほど当然な筋を辿って凡庸に進展していった。
台詞も凡庸なら、音楽も凡庸だった。
タイム・カプセルに入れて「凡庸」というラベルを貼って土に埋めてしまいたいくらいのものだった。



いいね。すごくいい。
ふふりと笑ってしまう。
表現力豊かだ。

2010年9月11日土曜日

命と引き換えに○○を救えるとしたら

ねえ、馬鹿げてるって思われるかもしれないけど、
もし自分の命と引き換えに何かを救えるとしたらどうだろう?

何を救う?
もっといえば、何と引き換えなら、自分の命を差し出せる?

たとえば、一輪の野花を救える。
たとえば、一羽の小鳥を救える。
たとえば、一人の親友を救える。

たとえば、一つの惑星を救える。

「羊をめぐる冒険」(村上春樹著)では、世界は羊による支配から救われた。
一人の人間の死によって。

命と引き換えにしなければ救えないものがあるのかもしれない。

もしかしたら、自殺する人には2種類いるのかもしれない。
自分に負けた人と自分に勝った人。
仏教では、自死は地獄に堕ちると説かれているらしいが、これは方便かもしれない。
安易な自殺を否定するための、有刺鉄線みたいなもので。
邪悪なモノを完膚なきまでに葬り去るために自ら命を絶つという死も
本当はあるのではないだろうか。
それによって、確実に救える尊いものがあるとしたら。

人の細胞は毎日確実に生まれ変わっていく。
わたしも毎日確実に死んでいる。そして生まれている。
歌を歌う人が、その声を出すことによって、その人の一部の細胞が死滅しているかもしれない。
一方で、その声を聴くことによって、聴く人に新しい細胞が生まれているかもしれない。
生と死はつながっている。
別々の肉体でさえ、音楽によって互いの細胞の生死がつながれている。



死を、肯定的に扱えるのは、本物の宗教と本物の芸術だけかもしれない。
そこには道がある。
「死んだら終わりだ」という発想から抜け出すための、
生命の躍動の道。

2010年9月3日金曜日

在庫表

さんざん職場の文句を言って辞めていった前任者の女の子は
史上稀にみる最悪な在庫表をわたしに残していった。

5月に引き継いだわたしは実に3ヶ月もの間、
そのめちゃくちゃな在庫表に頭も身体も振り回されてきたのだ。


いい加減な仕事しかできないヤツは、人間関係もいい加減なのだ。

生き方もいい加減になるのだ。
いい加減な在庫表から、その子の人間としての欠陥を
わたしは嫌というほど洗いざらい読み取った。
嘘とタテマエばかりの在庫表。

それを知っているのは、今もわたしだけだ。

退職の日が迫っていたある日、
彼女とわたしは引継ぎのために時間をあてがわれていた。
倉庫においてあった製品在庫の説明をし終えると彼女は
「そうだ、ちょっと乾電池もらっていくよ。もう辞めちゃうから今のうちに」
そう言って、製品用の新品の単3電池20個あまりをわしづかみにすると
すばやくバッグに入れた。
わたしの見ている前で、堂々と、悪びれる様子も見せなかった。
まるで洗濯物でも取り込むみたいに平然と取っていったのだ。


他にもやってるな。
新品の乾電池だけじゃあるまい。
そう感じさせるほど彼女の動きは自然だった。

嫌なものを見せられた。

乾電池を盗んで、職場を去っていく。


彼女の生命に黒いシミがついた。
いまは見えなくても、歳を取ったら顔に出てくるぞ。
シミだらけの醜い顔になるのだ。

彼女の美しい横顔をみつめながらそう思った。