2010年5月19日水曜日

僕が僕であるために

2010-




死ぬほど寂しそうな顔をして歌う彼の表情を見ていて
涙が出てきた。
こんなに全部をさらけだしてしまったら
きっとすごく痛いだろうに。
そう思ったら、自分の心まで痛くなった。

おこがましいかもしれないけれど
もし生きて出会っていたら、
何とかしてその孤独を救ってあげたかった。
そんなふうに思いながらこの歌を聴いた。

正しいことが何なのか、いつか分かる日がくる。
そう信じて歌う彼の純粋さが深く鋭く胸を打つ。

今のわたしは
寂しい歌を聴いても、寂しくならない。
昔よく聴いていた尾崎豊の曲を聴いて
自分が変わったことに気づく。
感傷は、もう必要ない。

現実の世界で戦う。
明るく、明るく、どこまでも明るく生きる。

2010年5月16日日曜日

あればいいなと思う機能は?

2010-69

仕事をしていたら突然、先輩から呼ばれて
社内の別の部署へ行くように言われた。
先輩の後を付いて会議室に入ると、紙を渡される。


そこにいた女性が話し出した。

「ここに、秋に発売する○○という製品があります。
お渡しした用紙のQ1から順番に質問に答えていってください。」

そのQ1とは、
「いらないと思う色はどれか?」
だった。


なるほど!
新商品前の社内アンケートか!
やっと自分の置かれている状況を理解すると
さっそく質問に答え始めた。

会議室には同じように社内の20~30代女性が
質問のたくさん書いてあるアンケート用紙とにらめっこしていた。
近くの椅子に座った人が言った。
「ブルーはないなぁ・・・」
するとその隣の人が驚いて言う。
「ええっ?私、ブルーが一番ですよ」
私もなぜかその会話に自然に参加してしまい
「私もブルーはいい色だと思いました」
と言うと、その場にいた何人かが会話に参加して
ブルー派と否ブルー派に意見が分かれた。

最後の質問で、欲しい機能があれば書いてください、とある。
欲しい機能?欲しい機能ねぇ。。。
機能満載だし、これ以上何を望めばいいんだろう?
何を書こうか思案していると
さっき会話をした人がポツリとつぶやくように言った。


「・・・・褒められたい。」




え?
褒める機能ですか?と聞き返すと、
「そう。何でもいいから褒められたい」
と答えた。
少し遠い目をしながら・・・(笑)


ほほー。
家電製品が褒めてくれる・・・か。

たとえばご飯が炊けたら炊飯終了の合図とともに
「上手に炊けましたね」と表示がでる炊飯器とか
洗濯を始めるときに「今日もお洗濯ごくろうさま、いつもエライですね」
と音声が流れる洗濯機とか
以前より痩せていると「すごい!この調子でがんばれ」と言われて
逆に太っていても「その調子、その調子!いいよ、頑張ってるよ」
と褒めてくれる体重計とか。

他にもいろいろできそう。
褒められたい人が多い世の中かもしれない。
それはなかなか良い機能にも思えた。

次のブームは「褒め家電」かもしれない・・・!!
と、予言してみる(笑)
コレを読んでひらめいた人がいたら
ぜひナイスな「褒め家電」を作ってください。
そして私にタダでくださーい♪

ところで「愚人に褒められるは第一の恥」が信条のふうさんですが、
家電に褒められるのはどうなんだろう?(笑)

2010年5月12日水曜日

初出社

2010-68

新しい会社への初出社。
スーツを着込んで電車に乗り、会社の最寄り駅で降りた。

わたしの新しい仕事は広報。
初日はひたすら雑誌のチェックをした。
会社の商品が掲載されているか確認し、
それをスキャンして保存する。
とにかく何十冊も雑誌のページをめくった。
ファッション誌、生活情報誌、経済誌、テレビ番組情報誌などさまざま。

その量が多い上に、やっているそばから「これもお願いしまーす」と
新しい雑誌が増えていくのでこれは相当なスピードでチェックしないと
他の仕事ができなくなっちゃうな…と思いながら
ペースアップしてなんとかそこにあるものは終わった。

はー!おわたー!と一息ついて
隣の席で仕事を引き継いでくれている派遣の子(来週で辞める)に
「終わりました」と声をかけると
「ええっ!もう終わっちゃったの~?」と驚いたあと
彼女は顔を近づけて、わたしにしか聞こえない小さな声で言った。

「そんなに頑張らなくていいよ、派遣なんだから」

あれ?デジャヴ?
そういえば少し前にアルバイト先でも似たようなことを言われた。
「そこまでする必要ないよ、所詮俺らはアルバイトなんだからさ」

正直びっくりする、こういう言葉って。

仕事をしに行ってるのに、その仕事をなるべく減らそうとする。
楽して稼ぎたいってことなのかな?
同じ時給なら、仕事しないでお金をもらうほうが嬉しいってこと?
それってあまりに短絡的じゃないか。


自らの「仕事」に喜びを見つけられないとしたら、
それは「仕事」ではなく「作業」だ。



そして「何のため」に働いているのか。

ある偉人はこんなことを言っている。
「労苦と使命の中にのみ
人生の価値(たから)は生まれる」

「何のため」という使命感や目的観がなければ
何をしていてもどこにも辿りつかない。何も達成できない。



わたしは具体的に人の役に立つ自分になることを目標に
広報のスキルをより多く身につけ、新たな人脈を作ることを目的として
ここで働き出したので仕事が増えるのはむしろ歓迎できる。


さまざま考えながらの初出社となった。

2010年5月10日月曜日

仏壇

2010-67

夕方、母からメールがきた。

「電子レンジ、物置にあった。
捨てちゃったと思ってたんだけど忘れてたみたい。
ごめんね。もう買っちゃった?まだなら送ろうか」

送って送って~!
と即座に返信。
電子レンジはずっと必要と思っていたけれど購入は後回しにしてきた。
心に決めたことがあったからだ。

2月の大雪の日にスーツケースひとつで東京に舞い戻ってきた。
当然部屋にはなにひとつない。
しかし、一番最初に買うと決めていた「あるもの」を買うまでは
決して何も買うまい。
どんなに不便でもどんなに必要でも。

そのあるものとは、仏壇だ。

読んでいる人は驚くかもしれない。
もしくは身内の不幸を心配してくださるかもしれない。
それ以上に、大丈夫?と心配されるかもしれない。

ここで必要以上に、自分の宗教について書くつもりはないが
世間一般では黙殺されている「信仰心」というものを
わたしが強く心に持っているということだけ書いておく。
つまりわたしは外国人と話していて
「自分はブディストだ」と自信を持って言える日本人のひとりだ。

仏壇購入への決意には、それ相応のさまざまなストーリーがある。
そして、今のわたしでなければ買えない。

仏壇は線香やろうそくを買うのとは違う。
それ相応の決意がなければ買えるものではない、
ということは無宗教の人でもある程度想像がつくでしょう。
わたしは仏壇購入を心で強く願った。
形にこだわっているのではなく、信念を形にして自分の目の前にドーンと据え置きたかったのだ。

仏壇はまさに自分の宗教的信念の体現となるものだ。

ここはとにかく「順番」が大事なのだ。
最初に買うと決めたものから順番に買う。

強き信念の前では、不便さはある意味問題ではない。

ガンジーは占領下のインドでイギリス政府が統治を強めるために
塩の専売を開始すると即座に「塩の大行進」を始めた。
インド独立を認めないイギリス政府からは何も買わない。
それがたとえ生命維持に不可欠な塩であっても。
塩?それなら海まで行って自らの手で作ればいいのだ!という話。

わたしの信念とガンジーのそれとが同じとは言い難いが、
とにかく不便がなんだ。
自分で決めたルールは死守しなければならない。

就職が決まったら仏壇を買うと心に決め
採用通知がきた次の日に購入に踏み切った。
カードでしか買えない金額だったが
それは働いて少しずつ返せばいいだけの話だ。

そしてわたしの計画では、次はようやく電子レンジだった。
こと電子レンジに関して言えば、
安価で簡単な機能のもので良いと考えていた。
最低限あっためることができればいい。

でもそれは次の給料が入ってからの話だと算段していた。
どれだけ安くても、収入が安定するまでは安易にお金を使えない。
だから今後1ヶ月ほどは電子レンジのない生活を続けるつもりでいた。

その電子レンジを買わなくて済む、という母からのメール。
なんとも不思議な気持ちになった。
なぜこのタイミング。

必要なものが向こうから歩いてやってくるような感じもするし、
仏壇買うまで物置で知らん顔していて、タイミングよく出てきたとも思える。
普通の人なら「ラッキーだね」で済ますレベルかもしれない。
もしくは「運が悪いね、もっと早く見つかっていれば不便な生活をしなくて済んだのに」と言うかもしれない。

こんな風に言われるとき、
人生には幸運と不運のどちらかしかないように聞こえる。

しかしわたしはそこに何らかの
意味なり示唆なりを見つけたいと常々考えている。

仏壇買ったら電子レンジがもらえた、となると
値段がぜんぜん釣り合わないじゃないかと笑われるだろう。

必要なものが必要なタイミングで現れるということを
「ラッキー」以外の言葉で表現すると
「何かの恩恵にあずかった」とも言える。
キリスト教徒なら真っ先に神に感謝すると思う。

わたしは、というと…
「順番に間違いがなかったんだ」と、安堵した。
自分のルールに少し自信をもった。

そして、やはり願えば叶う、と確信した。
人生は願ったとおりになっていくんだ。

2010年5月9日日曜日

ロシア文学の素晴らしさ

2010-66

ドストエフスキー「貧しき人々」読了。
これは彼の処女作だ。

ロシア文学の素晴らしさ!
今更ながら唐突に気づかされた。
大学生時代のわたしにはまったく理解できなかったのだ。
貧しい、ということが。

19世紀末のロシアは本当に貧しい。
極寒の地で、作物はなく、港も凍る。
なのに裸足で歩かなくてはならないほど
人々はあまりに貧しいのだ。

「貧しき人々」の主人公とその周囲の人々もまた極貧だった。
この小説の主人公たちは極貧からスタートし、
さらに一層貧しく困窮していく。
どんどん貧しくなっていく。
ボロボロの衣服を着ていることに後ろ指差されても構わず、
愛する人のために惜しげもなく自らのお金を使っていた主人公が
物語が進むにつれて本当にどうしようもなく貧しくなっていくのだ。
貧困の脅威。

キリスト教(ロシア正教)である彼らは、
極限状態で神の存在とその力を疑わざるを得ない。
救いうようのない貧しさが、
悪魔のように彼らの正しき思想を捻じ曲げようとする。

人間が、その人間性を失う限界まで苦悩し葛藤するのだ。

その苦悩と葛藤の様子が
これほどまでに鮮明に表現されているからこそ
ロシア文学は素晴らしいのだと思う。

それは、貧しいということに関しての文学的表現の限界のようにも思える。
ヒューマニズムの極地。


「どうか不幸のなかにあっても高潔で毅然とした人間であってください。
貧困は悪徳にあらず、ということを覚えていらしてください。
それに、自棄を起こすことはないではありませんか。
こんなことは、何もかも一時的なことです!」

(「貧しき人々」光文社古典新訳文庫p220)



そしてこれが結論となる。



身を削られるような極貧を体験する中で、
二人の主人公が結局知り得たのは単純な真実である。
幸せをもたらすのはお金ではない。
人生に喜びを与えてくれるのは、
互いの不幸を思いやり相手の幸せを心から喜ぶことのできるような隣人をもつことなのだ。

 (訳者あとがきより)


皆さんはそんな隣人をもっていますか?
わたしの答えは、「YES」です。

2010年5月8日土曜日

お金の払い方

2010-65

何か商品なりサービスを購入したとき
普段お店でどんなお金の支払い方をしているか
意識したことはありますか。


わたしの母親は
「お金の支払い方に人間性が出る」
とよく言っていました。
というのも、母はいわゆる学研のおばさんだったからです。
まだわたしが小学生の時分ですが
毎月、学研の「科学」と「学習」というそれぞれの教材が
地域の1年生から6年生の分までどっさり届いて、
それを車に乗せて配達するのが母の仕事でした。

当然月末になると、その分の代金を集金に伺います。

「毎月、必ず月末に集金に行っているし、金額も毎月同じよ。
封筒に代金を入れてつり銭が必要ないように用意している人もいれば
『おいくらでしたっけ?』と慌てて玄関先でお財布からお金を出す人もいる。
そのお金の渡し方も『いつもどうも』と言ってくれる人もいれば
いかにも嫌そうに、しぶしぶ無言でお財布からお金を出して
『そんなにこの金が欲しいか?欲しけりゃくれてやる』みたいな表情で
投げるように渡す人もいる。
こちらとしては単に集金しているだけで
別にお金を恵んでもらっているわけじゃないのによ?
お金の支払い方には本当に人間性が出るわ。
気をつけないさいね」

こんなふうに言われた記憶がある。
それが強く印象に残って、
わたしの中に人間観察のひとつの判断基準を作った。

確かに、レジでお金を投げる人はたくさんいる。
たくさんいる、と書いたが
本当に、信じられないくらい、マジでたくさんいるのだ。
この場合、わたしが「投げる」と表現するのは
レジにある、お金を支払うトレーもしくは直接レジ台に向かって
ある程度の高さからお金を放り投げるよぅな仕草をさしていう。

それが千円札だろうが500円玉硬貨1枚だろうが328円だろうが
お構いなしだ。
お金を投げる行為は男性に多いが、女性でもやる人はやる。
たまたまその日だけ、というのではなく
お金を投げる人は常に投げる。

その人相もステキとは言い難い。
少なくとも柔和な表情はしていない。

商品の購入と代金の支払いは権利と義務から生ずるもので
無意味で退屈でバカバカしい行為だとでも言いたそうな表情だ。
高慢で尊大な態度にも映る。
無言でお金を投げる光景に、
アフレコで「ほらよ」と吹き変えてもいいくらいだ。
とにかくその表情も動作もまったく幸せそうではない。


また、紙幣を小さく畳んだ状態のままで支払う人がいる。
財布の形状に合わせて八つ折された小さな正方形のかたまりを
ポイ、と投げる。

これをおもむろにつまんで、
両手の親指と人差し指ですばやく開いて
ようやく「千円お預かり致します」と言うことになるんだが
その時わたしが手にしているのは皺だらけのクチャクチャな千円札だ。
受け取っても、もはやつり銭にはできない。
レジの一番下のほうに滑り込ませて、
つり銭として使われないように配慮するくらいだ。

財布の形状で仕方ないにしても、
畳んだ紙幣を広げてから出すのが礼儀じゃないだろうか。
つまり、どんな財布を使おうとあなたの自由。
だからお金を小さく畳むのはあなたの自由だけど、
他人に渡す際にはせめて紙幣の本来あるべき姿に戻せ、っつー話。
個人的感覚としては、紙幣を小さく折りたたむのは嫌い。
お金は、割り箸の袋やガムの包み紙とは違うんだから、と思う。

そして、レジでしわくちゃの紙幣を出す女性にひとこと言いたい。


色気ないよ。



どんなにキレイな服を着て、ばっちりメイクして、
ブランドのバッグをひっさげて、ハイヒールでカツカツ歩いても
しわくちゃなお金をポイと投げてたら詰めが甘いと言わざるを得ない。
イイ女度低いわ、それ。
お金に汚く見える。

美しい人はお金の払い方も美しいですよ。

銀座 小十

2010-64

和食の「銀座 小十(こじゅう)」に行きました。
日本で、いま一番といわれている日本料理らしいです。
日本料理の分野で日本一ということは、まさしく世界一。

店主は奥田透氏、1969年生まれ。
30代の若さで2年連続ミシュラン★★★(3つ星)をとったとか。

小十という名は、陶芸家・西岡小十氏とのゆかりから
氏の名前を店名としていただいたそうです。
お料理は小十氏の唐津焼に盛られてひっそりと美しく出さました。

さて、感想ですが。







美味すぎて記憶がない。



飲んだお酒だけ覚えてます。

・開運 特別大吟醸
・磯自慢 大吟醸
・黒龍 大吟醸
・白山 大吟醸古酒
・開運 特別大吟醸(2杯目…笑)



はー、おいしかった!
また行きたいな♪って気軽に通える値段じゃありませんね。。。



そうそう、この日はお店に
NHKのドキュメンタリーの取材が入っていました。
夏に放送する番組だとか。


お料理をいただきながら、
ご主人から「料理」について少しお話を伺いました。
曰く、
「料理を作るというのは、何か他のものを作るのとは違って誰にでもできます。
車や電気のような便利なものでもないし、文学や絵画のような芸術でもない。
とても地味なものです。
しかし料理は唯一、人の身体に直接吸収されるものなのです。
血となり肉となる、具体的に栄養となるんです。
それこそが料理の素晴らしさであり料理人の誇りだと思います。」
と、だいたいこのようなことをおっしゃいました。

わたしはさっき口にしたものが胃で分解され
栄養として身体の隅々に行き渡るのを想像して
「それはどこか音楽と似ていますね」
といいました。

音楽は空気の振動として耳と皮膚に直接触れ、
音色として人の内部に響き渡る。

「そうとも言えますね」とご主人は答えて、
さらに
「料理は人を豊かにできるのです。
だから週に1度くらいは、いや、月に1度でもかまいません。
純粋に『料理を楽しむ』時間を持つべきだと思うのです。
誰かと一緒でもいい、高価な食材である必要はない。
ただし、心からおいしいと思える楽しい時間を自ら作ることが大切です。
好きな音楽をかけて、落ち着いた部屋で、
その季節に応じた心のこもった料理を食べる時間です」


つまり「人生を味わう」ということでしょうか。
納得しました。

食生活は、その人の表情にでますね。
余裕のない食事ばかりしていると余裕のない顔になると思います。
「時短」というキーワードで、いかに手を抜くかばかり考える世の中ですが
たまには手の込んだお料理を作って味わおうと思いました。

2010年5月7日金曜日

クレーム②

2010-63

己の不運を嘆いたことはほとんどありません。
なぜって、不運とかツイてないとか感じないからだと思う。

わたしは仏教徒なので、基本的に物事は「縁起」によると考える。
すべては「縁りて起こる」。
偶然とか不運とかラッキーとかそういうものではなく、
何かの縁に触れてそれが起こってくる。
子供の頃からそう考えてきたので
不可解な出来事や理不尽な物事に直面したときに
自然と「何か意味があることだろう」と感じる。

非のないわたしへのクレーム自体はまったく理不尽だけど
なぜこれほど赤の他人に非難されるのか、をしばらく考えていたら
やはりとても意味があるように感じてきた。

接客業を長く経験してクレームも何度かいただいてきたけれど
今回は、いままでとは違う感覚で受け止めた。

とりあえず、わたしは怒られる必要があったのだろう。
理不尽に怒られたかったのかもしれない、何かの結論へ到達するために。
もしくは単純に「理不尽さ」を経験するための出来事だったのかもしれない。
もしくは「仕事と責任」について考えるための足がかりを必要としていたのか。
「怒り」について考えようとしていたのかもしれない。
または「謝罪のあり方」について考えるつもりだったのかもしれない。


「わたしの何か」が縁となって「相手から引き出した怒り」をどう考えるか。
たとえ自分が悪くなかったとしても、人を怒らせる、人から怒られる。

理不尽な怒りについて悔しい気持ちも少しはあるけれど
自分が相手から引っ張り出してきた「怒りのタネ」を大事そうに持ち帰って
鉢に植えて水をかけてどんな芽がでるのか本気で考えている。
わたしは結構たくましいかもしれない。


決して恨みに変えないように、ポジティブにとらえる。

2010年5月4日火曜日

クレーム①

2010-62

2週間ほど前に働いていたカフェで
お客様からかなり強いクレームがあった。

しかもそれは一方的にわたし個人に向けられた。

誓って書くがこのクレームの一件に関して
わたしにはまったくといっていいほど落ち度がなかった。
詳細な内容が書けないのは残念だが
それは本当に信じてもらう以外にない。
わたしは常にやるべきことをちゃんとしていたし、
それ以上の積極性でポジティブに働いている。

一緒に働いていたアルバイトの男の子が
3重に手を抜いた結果、今回のクレームが発生した。

3重の手抜きとは、
①やるべきことをやらなかった
②やらなかったことを報告しなかった
③軽いクレームを受けたときに対処せずそれを後回しにした

そして補足だが
④重大なクレームに至ったとき、自分の手抜きを隠蔽しようと嘘をついた

さて、ここから重大なクレームに至った。
お客様から真っ先に抗議を受けたのはわたしだった。
なぜならわたしはお客様と唯一会話をするレジのポジションだ。
オーダーを通し、お会計を済ませ、
最初の軽いクレームを受けたのもすべてわたしだった。

一緒に働く彼はわたしより長くそのカフェで働き、仕事を教えてくれていた。
わたしはほんの1ヶ月前に働き始めたばかりだ。
当然、その怒りを含んだ最初のクレームはわたしから彼に伝えられた。
緊張感を伴った声で、緊急性を最大限に表現したつもりだ。
彼は「あー」とだけ返事をして、次の行動に移った(ように見えた)。
それはわたしにはクレームに対処するための行動に受け取れた。
しかし実は彼は何も対処せず、結局わたしはもう一度クレームを受けることになる。


今度は、個人攻撃のような執拗なクレームだった。
名前を呼びつけにされ、「お前は俺をバカにしているのか!」と怒鳴られる。
最初のクレーム後のわたしの行動について詰問され
「どうなんだ、答えろっ」と言われるが答えようがない。
悪いのはわたしではなく、別のアルバイトだ。
しかしお客様はわたしの責任について問うていた。
わたしは店の立場に立ってただただ謝罪するしかない。
店長も呼ばれたが、わたしより2つ年下の店長はお客様の前で無言で縮こまっていた。
「大変に申し訳ございませんでした」を100回以上繰り返しても
そのお客様の怒りは収まらない。

結局、お客様は終始わたしを睨みつけ、わたしの苗字をメモして
本部に今から電話をかけるといって出て行ってしまった。

憎々しい言葉の数々の中で何度か
「あんたは悪いと思ってないだろう」
と怒りに声を震わせながら言った。


残念ながら、図星だ。


それを言われるたびに、めっそうもございません、
という困惑した顔を必死に作った。
申し訳なさをもっと表現できるように最大限努力もした。
クレームに至るまでのお客様の気持ちを想像し、
自分の心に「申し訳なさ」を増幅しようと試みた。
朝からこれほどの怒りを発散しているお客様が
もし自分だったらと考えるととても絶望的な気持ちになる。
しかしそれは同情という種類の感情であって
単純に、(軽蔑的な意味ではなく)かわいそうな人としか思えない。

「申し訳ないことをした」という気持ちをなんとか
自分の心の中に作れないものかと考えていた。
でもそれは捏造に近いかもしれない。

お客様は一方的にわたしを悪者にすることによって
自分のクレームの正当性を論理的に説明しようと試みていた。
つまり、わたしが理想的で完璧な行動をとっていれば
そもそもこのクレームはなかったんだと言った。
しかしそれは本当に一方的で自分勝手な決め付けであって、
実際にわたしがその行動を取るのは不可能だった。


わたしは悪くない。
ほんとうに、どうしようもなく悪くない。
むしろ感情としてはお客様の立場に立って行動していたはずだ。
できることなら重大なクレームに至る前に自らすばやく対処し謝罪したかった。
しかし、自分には守るべきレジのポジションがあって
わたし以外の人がその役目を代わりに負うことはない。
このカフェでは完全に分業化されたスタイルで働かされている。
皆それぞれ自分のポジションを死守しなくてはならない。
朝の混雑時、わたしはそこを絶対に動いてはならなかった。
それは店のルールだ。

クレームに対処することができる唯一のポジションの人間が
運の悪いことに、その日たまたまいい加減な男だった。
しかしそれはその時のわたしにはまだ判明していない事実だ。


こうしてわたしは一方的に罵声を浴びることとなった。
もちろん、そのすぐ後で店長とそのアルバイトはわたしに謝罪した。
お客様は誤解したまま帰っていったが、一緒に働いている人間には
誰がどう見てもわたしに非はないと分かっていた。

この出来事が不可解で、しばらく忘れられなかった。
自分がまったく悪くないのにも関わらず、
一方的にお前が悪いと攻撃され、強く謝罪を要求された。
しかしどれだけ精一杯謝っても謝っても
「悪いと思っていないだろう」とさらなる憎悪を呼び起こしてしまう。
怒りは収束するどころか膨らみ続ける。
憎々しげに睨まれ続ける。

終わりのない謝罪。


悪夢みたいだ。
昨夜はひどい夢を見たよ、
なんて友人に話しても良さそうな類の話だ。
それが現実に起こるなんて。


(つづく)

読書のたのしみ

2010-61

先日アマゾンから注文していた「1Q84 book3」が届いた。
真っ先に読みはじめたい衝動を押さえ
ひとつ読みかけの小説を根気良く読み終わってから
ようやく「1Q84」にとりかかった。


バイトの短い休憩中も、わたしは常に何かしらの本を読んでいる。
小脇に本を抱えて休憩に入ろうとしたとき
わたしより2つほど年齢の若い店長が覗き込むようにして聞いた。

「それってあれでしょ?」

わたしの抱えた本に目線を落としている。

「1Q84の3巻ですよ」

そう答えながら本の表紙を見せる仕草をした。
表紙はおなじみの大きなQのマークの装丁だ。
(わたしは本にカバーをするのが嫌い)

店長は「分厚っ!」と短く言って苦笑した。
たぶん読んでないだろうなと思いながらも一応
「もう読みましたか?」と社交辞令で聞いてみる。

「そんな分厚い本読む気にならないよ」



そこで会話は終了したのだけど、
わたしは「分厚いからいいんじゃない」と心の中で返事をしていた。

アマゾンから届いたとき、真っ先にこの本の分厚さを素直に喜んだ。
そして一気に読まないように、家では絶対に本を開かなかった。
なるべく短いバイトの休憩時間に
ほんの10分から15分程度集中してページをめくる。
それでも物語が進行して、既に半分ほどのページをめくってしまったときに
早く続きが知りたい気持ちと、残りの半分を惜しむ気持ちが錯綜して
一度本を閉じた。

読書の楽しみを知って以来、断言できる。
面白い本は、分厚いほどいい。

そして昨日、大事に読んでいたbook3を読了した。
とても面白かった。
村上春樹がますます好きになった。
続きはいつになるのかネットで調べると、
「そもそもbook4が出るのか出ないのか」についてアレコレ予想されていた。

続きは出ない、この本はbook3で完了だ。
という人がいることに驚いた。
そこにさまざまな見解が述べられていたのだけど
なんだかどれも深読みしすぎだと思った。


続きは必ず出ますよ。
だって物語は大詰めを迎えたまま終わっていないじゃない。
みんな村上春樹をもっと信頼していい。
彼はそんなにサディスティックじゃない。
小説家としては親切なほうだと思う。


ところで、まだ読んでいない方はこの機会にぜひ。

2010年5月2日日曜日

現在の行動が未来の結果

2010-60

アルバイト先のカフェで
同じく仕事を探しているフリーターの男の子がいる。
年齢はわたしよりひとつ年下。
5月9日で30歳になると聞いた。
毎朝、早朝から一緒に働いている。

わたしの就職先が決まり、何気なく
「N君の就活の進行具合はどうですか」
と聞いてみた。

「いやぁ、全然ですよ」
と彼は答える。


「どんな職種を希望しているの?」

「うーん、決まってないけど一日デスクワークしているのは嫌なんで。」

「デスクワークじゃない仕事って・・・カフェみたいなお店ってこと?」

「いや、お店じゃなくて、外回りとか。」

「外回り・・・営業?」

「そうっすねぇ。営業がまあ一番向いてるかなぁ~と。」

「ふーん、大変そうだねぇ」


という会話をしながら、
わたしはN君が営業で外回りしている姿を想像してみた。

そしたら、ダラダラと歩きながら営業している姿が思い浮かんだ。
ダラダラ営業し、顧客や上司の愚癡を言い、成績はぜんぜんあがらない。
「まあ所詮、仕事なんてつまらないものだよ」と悟ったような声で言う姿まで
なんともリアルに思い浮かぶ。

念のため、営業じゃない職種で、つまりデスクワークしている彼も想像してみた。
でもやはりダラダラとデスクワークしている姿が思い浮かんだ。
何かのシステム異常が発生して
「クソっ。またかよ、めんどくせー」とひとり言をつぶやく彼も想像できた。
後輩が仕事を聞きにくると
「あ、これは本来はこうしなきゃいけないんだけど、まあ、テキトーに。」
と教える彼の姿。
上司に何かを咎められて言い訳する彼の姿。



結局、N君に関してはたとえそれがどんな職種であったとしても
ダラダラ仕事する姿しか想像できない。
それはわたしが普段、目にするN君の姿そのものだった。

わたしはN君に関して、悪意も敵意もまったく持ち合わせていないけれど
ニュートラルな頭で想像しても、未来のN君の働く姿は常にダラダラしている。

彼は不真面目に仕事をしている訳じゃない。
やらなければならないことはきちんとこなしている。
仕事ができないほうではない。
ただ、いつだって
「隙さえあればちょっとだけ手を抜こうとしている」 状態だ。
N君は常日頃から努力を惜しむ。

それがダラダラした姿の原因だと思う。
それは顔にも動作にも態度にも端的に表れる。
何かにつけて「緩慢さ」が見て取れるのだ。
それは既に、N君の最大の特徴のようにわたしにインプットされている。

ふと、自分はどうだろう?と思う。
普段のわたしを見ている誰かは、
わたしの仕事振りをどんなふうに想像するだろうか。


そう思い巡らして、
突然いつも以上にキビキビ動き出したわたしを
N君は不可解な顔をして見ていた。

わたしは知っている。
現在の行動が未来の結果であると。
今の自分の姿が、未来の自分の姿の紛れもない一部であると。

2010年5月1日土曜日

就職が決まりました

2010-59

さてもう5月ですね。
滞っていた過去の日記はあきらめました。
365日分書く予定でいますが、過去の日付で書いていると
自分でも訳が分からなくなってきたので
ここらへんで現在日時で更新していくことにしました。

就職が決まりました。
ある大手家電メーカーの広報のお仕事です。
派遣社員となります。
探していた編集職ではなく、また正社員でもありませんが
迷いの嵐の中、ずぶ濡れになりながら見つけたひとつの灯火です。

わたしは一体何がしたいんだろう?
前職が編集だったから、編集の仕事を探しているけれど
わたしは果たして編集の仕事に向いていたんだろうか?

わたしのつぶやきに、友人が
「誰もがみんな、『本当は自分にこの仕事は向いていないんじゃないか』
『もっと他に自分にふさわしい場所があるんじゃないか』と、自分探しばかりしていて、
本職に身が入らずに、そして結局何も見つけられずに終わっていくんだよ」
と言った。

自分探しばかりしている現代の人たち。

人生に確固とした目的や目標がないのに、
一体どこに「本当の自分」が見つかるだろうか?
自分の居場所は見つけるものじゃなくて、創るもの。

自分探しなんかしても見つからない。
とにかく、力をつけるんだ。
そして自分の力で自分の居場所を創り出すんだ。

そう、それでわたしはとにかく力をつけるために
また新しい場所で働こうと決意した。
正社員とか派遣とか、
形にこだわるちっぽけな自分をこの際ドブに投げ捨てて
未知の仕事を覚えるんだ。
あらゆることを吸収するんだ。
そしてわたしは一層、力強くなる。

どこかに行くためじゃない。
誰かの役に立つために。