2010年9月22日水曜日

「獄中記」佐藤優

「獄中記」は、対露政策を担ってきた凄腕の外交官であった佐藤優氏が
鈴木宗男議員との絡みで2002年5月14日に逮捕された日付から始まる、
勾留512日に及ぶ膨大かつ詳細な個人的記録だ。

恥ずかしながらTVを見ないわたしはこのあたりの事情と推移をよく知らないのだが
小泉政権が誕生して日本の外交政策は一気に(悪しき政策へと)方向転換したらしい。
佐藤氏が国益のために行ってきたそれまでの外交官としての任務が、
ある日を境に「犯罪」として仕立て上げられたようだ。

鈴木宗男と絡んでいたなら悪人だろう、と思ったら大間違いである。
彼は外交のエキスパートであり、まさしくエリート中のエリートだ。
ここで言うエリートとは、単に恵まれた環境下で高度な教育を受けて
高条件の役職に就く人間をいうのではない。

彼はこう書いている。

「日本ではエリートというと、何か嫌な響きがありますが、
ヨーロッパ、ロシアではごく普通の、価値中立的な言葉です。(中略) 
国家を含むあらゆる共同体はエリートなしには成り立ち得ない」

「現下、日本のエリートは、自らがエリートである、
つまり国家、社会に対して特別の責任を負っているという自覚を欠いて、
その権力を行使しているところに危険があります」


"国家に対して特別の責任を負っている"のがエリートである、と述べている。
この、彼の見方はとても正しいと思う。

大なり小なり組織には、そのすべての責任を担う、強烈な志を持った人間がいなくてはならない。
親であれば子に責任を持つ。
一家の大黒柱たる父親は家族を養うために行動に責任を感じるものだ。
真のエリートはそういった小さな個人的責任の範疇を大きく飛び越えて
より多くの人々、国家または世界について特別の責任を担おうとする。
「エリート意識」とは本来、そのような意味、
すなわち国家の大黒柱としての自負と強い責任感において使われる言葉であろう。

ほかにも示唆に富む言葉がいくつかあった。
取調べが進む中で、彼と同じく逮捕されたほかの外交官らについてこう述べている。

「私がどうしても理解できないのは、
なぜ、まともな大人が熟慮した上でとった自己の行為について、
簡単に謝ったり、反省するのかということです。
100年ほど前、夏目漱石が『吾輩は猫である』の中で、
猫に『日本人はなぜすぐ謝るのか。それはほんとうは悪いと思っておらず、
謝れば許してもらえると甘えているからだ』と言わせています。」


難しいのは、彼の犯した犯罪が果たして本当に犯罪なのか、ということです。
「私は、人を殺したのでもなければ、他人の物を盗んだのでもありません。
国益のために仕事をしてきたことが『犯罪』とされているわけです」

政権交代、パラダイムの大転換とともに、何が国益で、何が反国益となるのか。
佐藤氏の場合、対露関係における北方領土政策の大転換があったわけです。
氏はその大転換の狭間で不幸にも「犯罪人」とされたのでしょう。

そしてそれはわたしたちが選び取った政権によって行われた、
という事実を忘れてはならない。
たった一つの選挙によって、これほどたやすく善悪の価値が転換してしまうということに
わたしたち国民はもっと注意しなければならない。

戦時中、思想統制によって思想犯がたくさん生み出された。
思想の自由が保障された現代にあっても、
政策の転換、国益(=価値)の転換によって同じようなことが起こっているのだ。

国民はもっと政治を監視しなければならない、と改めて強く思った一書だった。


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