2010年1月8日金曜日

3分スピーチ「親孝行」

2010-8

大学時代、弁論部でした。

学際のときに3分スピーチをしました。
といっても事前に原稿を用意する普通のスピーチではないのです。
あらかじめ100個のお題を掲げておき、その場で来場者の誰かに選んでもらうのです。

お題はたとえば「青春」「人生」「仕事」「友情」「笑顔」「夢」「怒り」「幸福」などなど。

順番にステージに立ち、
お客さんから聞きたいスピーチのタイトルを聞いて、
30秒考えた後ですぐに喋りだします。
モチロン、100個のお題については自分が話すだいたいの内容を考えて
本番までに練習もしてきました。
ただ何を出されるかわからない、まあ何を出されても何とか3分話すしかない。



私の順番になり、ステージ中央に立つと音楽が鳴り
司会者が「どなたか彼女から聞きたいスピーチのタイトルをお願いします!」と叫ぶと、
会場に用意した座席の中ほどに座った40代後半~50代前半といった男性が手を上げてくれた。

スタッフがマイクを持って走り、その男性に向けると一言
「親孝行」

と言った。

その瞬間、私のスピーチは「親孝行」に決まる。
頭の中を駆け巡ったのは、これから話すべき内容についての断片的な言葉ではなく
ただただ、両親の顔だった。

やばい、何も話せない。
なんでよりによって「親孝行」なんかにされちゃったんだ。

そう思って、さっきの男性をみるとまさに父親と同じような年齢だと気づく。
そうか、もしかしたら子供の通う大学の学際を見に来たのかもしれない。
それで自分の子供と同じ大学に通う同年代の学生は
「親孝行」についてどう考えているのか聞いてみたくなったのかもしれない。


30秒が終わる。スピーチが始まる。
何か言葉を発しなければ・・・。

「私は何が親孝行なのかわかりません。
・・・ただ親孝行と聞いて親の顔が思い浮かんだだけです。」

こう切り出して、後は何を喋ったのか覚えていない。
長い長い3分間を苦悶しながら終えた記憶があるだけ。

それ以来、私にとって「親孝行」はトラウマであり、テーマにもなった。

あれから10年経ったのに、親孝行が今でもまだ分からない。
ただ今ならこんなふうに話しだすかもしれない。

「私は最近、親孝行をしたいと強く思います。

今度何かおいしいものでもご馳走してあげようとか、
誕生日や父の日、母の日の何ヶ月も前からプレゼントを考えたり、
お金を貯めて旅行に連れて行ってあげたいなとか、
とにかく喜びそうなことなら何でもしたいと思うのです。

そう考える私も、人生の様々な選択の中で、
いつも親を喜ばせてきたわけではありません。
むしろ親の期待を裏切り、がっかりさせ、泣かせてきたんだと思います。
だからといって、親が思うとおりの道を
私はどうしても選べないのです。

親にとってみたら、わがままな子なのかもしれない。
不器用な子だと思っているのかもしれない。
危なっかしい、見ていられないと思ってアレコレ言うのでしょう。
でも私はいつでも
親を悲しませようと思って道を選んでいるわけではありません。
ただ私の思う生き方と親の思う生き方にいつも少し違いがあるのです。
だから、そのギャップをなんとか埋めたくて
私は親孝行したいと思うのかもしれません。

ある人が
『本当の親孝行は自分が幸せになることだよ』
と教えてくれました。
親ならば子供の幸せを一番に願うのです、と。
もしそれが私の親にも当てはまるなら
どうかどうか、ずーっと長生きしてください。
いつか
『お父さんお母さん、私はあなたたちの子供に生まれて幸せです』
と言える日まで。」

終わり。

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